利害と感情に囚われている人は自発的に自分の間違いを改めた事がない
サタンは、人間に善悪の知識の木の実を食べるように唆すけど、実際に食べて善悪の知識が付くと、善悪の知識が付いた事を妬んで、人間が善悪を正しく知る事ができないように社会システムを捻じ曲げる。
善悪の知識は神の力だから、神の力を手に入れた人間をサタンは妬む。
サタンは神の力を欲してクーデターを起こすぐらいだから、神の力を手に入れた人間を妬む。
エヴァとアダムが善悪の知識を手に入れても責任転嫁をするのは、善悪の知識と善悪の性根は別物だから、悪いと判っていても性根が悪いと反省しない。
自分で善悪を考えるなら、勉強しなくていいから楽な生き方になる。
その時その時の自分の知識と経験と気分で自己中な決め方ができる。
何らかの本を読む必要がない生き方だ。
聖書を読む必要がない生き方だから、サタン側は人々が「自分の経験と気分で善悪を考える生き方」をするように唆す。
神の信者なら、聖書を読んで、どんな事件でも常に聖書の内容と神の意志に照らし合わせて判断する。
自分勝手な決め付けや、飽きてやめるなんてしない。
自分勝手に善悪を決めるのは勉強しなくて良いから堕落した生き方だ。
自分勝手に決めるのではなく、神が考える善悪で世の中の事柄の良し悪しを決めるのが本来の正しい生き方である。
自分勝手に善悪を決めるのは楽な生き方だから、不幸になる。
そういう気楽な生き方をしていると、サタン側がその生き方を助長する。
サタンの目的は人々を地獄へ道連れにする事だから、自分勝手な善悪観で物事を決める人間は地獄へ落ちるため、目論見通りになる。
独裁者が個人を依怙贔屓して、その個人が犯罪をやりたい放題する。
民主国家でも、主権者の大衆が特定のタレントを依怙贔屓して、タレントが犯罪をやりたい放題する。
暗君暴君の類である。
一人一人が自分のエゴでタレントを依怙贔屓するから、タレントが犯罪をする。
犯罪を助長している。
犯罪の温床になっている。
犯罪が構造問題になっている。
自分勝手に良し悪しを決めるから、犯罪者が増長する。
犯罪を助長しているのだから、パワハラやセクハラだって横行するようになるし、搾取も悪化する。
大衆が自分で善し悪しを決めるから、その悪行が周りに回って自分に返ってきて、自分で自分の首を絞める結果になる。
悪人を絶対に赦さない姿勢があれば、悪行が周りに回って自分に返ってきて、自分で自分の苦しめなくて済む。
ただ、実際に社会を作っているのはサタン側だから、神に立ち帰る以外に効果的な手段はない。
神の信者を殺すと、神が怒ってこの世を滅ぼして、サタン側を地獄へ落として焼き続けるか魂を消す。
だから、サタン側は神の信者を殺したくない。そのため、社会を住みやすくしたいなら、神の信者に成るのが唯一の手段である。
神の信者を殺さないシステムを作るから、戦争・飢饉・災害・薬害・暴動・治安悪化などで神の信者が死なないように、サタン側が社会を改善する。
自発性とは、利害や気分に囚われないで選択・決断・行動する事だ。
自分勝手に善悪を決める生き方をしている人は、自発的に自分の過ちを改めた事はないのだろうか。
俺は自発的に自分の過ちを改めた事は何度かある。中国古典を自発的に読んで考え方を変えたり、動物愛護に傾倒して肉食をやめた。聖書を読んで自分の間違いを改めた今は肉食に反対していない。
壁にぶつかって考えを改めるのは、自発的ではなくて他律的である。
試験に合格したくて我慢するのも、合格の利益が目当ての他律的である。
他人に叱られたり怒られたり殴られたり糾弾されて変えるのは、自発的ではなくて害を回避したいだけの他律的である。
自発性のある人は、どういう育ち方をしたら自発的になるのだろうか。
俺はそれなりに自発的に改善するけど、具体的にどうすれば自発性を習得できるのかと言われたら、答えに詰まる。いつの間にかやっているから、どうすれば習得できるか判らない。
考え続けたら、それなりにできるようになるのではないかと思う。
利害と感情に囚われた生き方をしていると、神に立ち帰れない。
利害と感情に囚われない生き方をすると、そのうち神を見つける。
神に立ち帰っていない人は、利害と感情に囚われている。
自分の利害と感情の隠れ蓑で善悪を利用しているだけの非信者。
好都合な時は善悪を利用するけど、不都合な時は善悪を知らん振りする非信者。
非信者は、ご都合主義・日和見主義で言を左右する。
神に立ち帰れば、死後に天国へ入れる利益が得られるけど、信者はこの世の利益が目当てではない。
ただ、神に立ち帰れば、この世でも見返りはある。それは、安全と安心である。
安全とは、サタン側が神の信者を殺さないシステムを作るから、信者は安全に暮らしていける事だ。この利益は、神に立ち帰ろうとする信者でもなかなか認識しづらいから、非信者だと絶対に理解できない。
神に立ち帰る人が増えれば増えるほど、その国家や社会は信者にとって暮らしていけるシステムになっていく。非信者は過酷な労働や重税で苦しむけど、神の信者は暮らしていける。
安心とは、例え迫害や冤罪で殺されても、神のために殉教を果たしたから天国へ入れる安心感である。
神の信者は、意識的に権力者の暴力に反抗して殉教を狙うから、サタン側の権力者は暴力で脅し付けるやり方を止めて、利益・世論・空気・ムードで唆すやり方に切り替えた。
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