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殺し合いは臆病者がやる事 エセ友とエセ予防薬 愛 人間関係の損切り人生の損切り

1、殺し合いは臆病者がやる事
悪魔崇拝に対して甘い判定を下す反カルト。
宗教を思考停止と言っている人は、悪魔崇拝のカルトの手下だ。
唯一、正しい天の主を信仰するのを思考停止と冒涜して、しかも悪魔崇拝を思考停止に矮小化するのはグルだ。

エセ科学カルトに洗脳されているから、他のカルトを論破できない。
そもそも、宗論そのものをしていないから、討論してないから、論破ができない。
反カルトの人は、自分のエセ科学を守っているだけだから、自分以外のカルトを論じていない。

カルトを論破する時は、カルトのルールに基づいて論破すべきである。
自分たちのルールでカルトを批判しても、カルトは団結するだけだ。
団結させる人は、カルトの手先なのかと思ってしまう。

本気で戦う気がないから、相手の急所を突かない。
こういう戦う気のない人間に、戦う気のない支持者が集まる。
戦っている気になって、自分が正義だと思いたがる。
急所を突かないから、ほっとかれている。

カルト自身の自負心を砕く必要がある。

殺し合いは「逃げ」である。
殺し合いは臆病者がやる事だ。
相手のエセ教義を全否定して、迫害や冤罪で殺されようと逃げも隠れもしないのが「本当の闘い」である。
聖書で「戦い」と書かれているのは、そういう意味だ。
殺し合いですら逃げなのだから、安全なところから自分ルールで叩くのは、戦いとか、そういうモノではない。
冤罪で殺されたら、神に代わりに復讐して貰って、相手を地獄で永遠に焼くか魂を消して貰おう。

俺自身は、昔はエセ科学カルトの妄信者だったから、神に立ち帰る努力を続ける事で、エセ科学カルトの急所を突いている事になる。

聖書を経典にしている偽装キリスト教団に対しては、どうやれば急所を突けるのか。
それは、神は分裂をもたらすと言っているから、統一・連合・団結を主張している偽装キリスト教団はカルトだと言ってやる。
家族を捨てろと神が言っているから、家族を大事にしろと言っている偽装キリスト教団はカルトだ。
剣をもたらすと言っているから、反戦非戦を主張する奴らはカルトだ。
こういう風に急所を突くのが本気で戦うという事だ。

悪魔崇拝は悪行である。本人だけが地獄へ落ちる罪ではなく、他人も地獄へミスリードする。
殺人罪をしている人間を思考停止なんて言うのは、加害者を被害者扱いするようなモノだ。
思考停止は精々が過失罪ぐらいにしかならない。

2、エセ友とエセ予防薬
サタンに魂を売ったエセ学者が偉そうに「陰謀論にハマる奴は友達が居ない」なんてネガティブキャンペーンをしているけど、どれだけサタン側からご褒美をもらえるのだろうか。

まずは、エセ学者は、世の中に本物と偽物が存在する事を知った方がいい。

エセ友のせいでエセ予防薬の薬害に遭ってしまったのか。
偽物なら居ない方がマシ。
エセ物にはエセ物が近寄る。
エセ友はエセ予防薬を連れてくる。
偽物同士で群れる。

ブランド品でも似たような事がある。
世の中には、本物と偽物の区別が付かない人が存在する。
偽物でも良いから、本物に見せかけて自慢したい人も存在する。
本物を買う金が無いから、偽物でもいいという人も存在する。

友達の振りをした敵というのは、フレネミーである。
フレンド(友)とエネミー(敵)の造語である。
有害な存在は有害なモノを持って来る。

エセ予防薬の接種で死んだ人は、エセ予防薬が原因と主張できない。
エセ予防薬の接種で死んでない人は、エセ予防薬が原因で死んでないと主張できる。
そのため、世の中には、エセ予防薬を接種しても死んでないと主張する人しか存在しないけど、エセ予防薬で死なない根拠にならない。
論理力の無い人は、この程度の論理も判らない。
体験談に基づく論証の危険性を全く知らないから、論理力がない。
伝統に訴える論証とか、権威に訴える論証とか、危険である。
何で、摂取して、たまたま死ななかった人間の証言で、エセ予防薬が安全だという事になるのか。死んだ人間は証言できないのだから、死ななかった人間の証言は何の証拠にもならない。
証拠能力が有るか無いかを判定する意識を持っていないのだろう。
犯罪者の身内の証言には証拠能力が無いのを知らないのだろう。

危険か安全か判らないモノを勧めるのは本当の友達ではない。
本当の友人はしっかり調べてから進めるかどうかを決める。

世の中には安全なモノと危険なモノが存在する。

自分が所有しているから本物だと思いたがるのは、論理性がない。
論理性がないから毒薬を安全だと思ってしまったのだろう。

論理性の前に世間知らずなのか。
それとも知っていて知らない振りをしている悪人なのか。

エセ友を持つぐらいなら、エセ友を持たない方がマシである。
悪行をするぐらいなら、悪行をしない方がマシである。
エセ友を持たないよりも、本物の友を持った方がいい。
悪行をしないよりも、善行をした方がいい。

ヤコブの手紙 2:23
「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
ヨハネによる福音書 15:15
もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

神が本物の友になってくれる。

本物と偽物の区別は難しい。
しかし、本物と偽物が存在する事ぐらいは知った方がいい。

エセ友は、相手が神に立ち帰るのを妨害する。
こんな生き方は止めるべき。続けると地獄へ落ちる。

3,愛
天の主の教えに反する「天国へ入れない生き方」をしている人の生き方を全否定するのが愛している事になる。
間違った生き方を全否定するのが愛する事になる。

愛するとは、一緒に天国へ入れるように教え諭す事だ。
敵を愛するとは、敵だろうと嫌いだろうと天国へ入れるように神の教えを諭す事である。
愛するとは、迫害や冤罪で殺されようとも、相手が地獄へ落ちる生き方をしていたら全否定する事である。これが本当の戦いだ。

全肯定は間違いである。
相手を堕落させる。
群れたいだけ。
群れるという欲望を叶えてくれた相手に無条件で世話をしろ。
群れるという欲望を叶えてくれた相手に自分が滅びてでも相手に尽くせ。
自分が滅びてでも相手に尽くすのが嫌なら他人を甘やかすな。
最後まで面倒を見れないなら甘やかすな。

国同士でも同じ事だ。
「群れたい欲」を叶えてくれた外国が居たなら、自国が滅びるまで援助をし続けろ。
自国が滅びるまで援助するのが嫌なら、今から出ても心を厳しくもって、けじめをつけるために、相手国を徹底的に叩いて自立させろ。
どっちつかずの中途半端な対応が相手国を右往左往させて滅ぼすから、その方が残酷な悪行である。
中途半端な援助は悪行だから、さっさとやめるべき。
本当の援助とは、自分が滅びてでも援助を続ける事である。
多分、自国が滅びるまで援助を続ける覚悟が欠落しているから、安易に援助して、まとわりつかれて困ってしまうのだろう。

4、人間関係の損切り人生の損切り
エセ友と縁切りできないのは、人間関係の損切りができなくて、ズルズル損失を出し続ける。
人生の損切りができないのは、インチキ科学を妄信して勉強した時間を損切りできなくて、ズルズル妄信し続けて損失を出し続ける。
十何年もインチキ科学を妄信して勉強したから、惜しくて捨てられないのだろう。
そういう損切りできない性根を見破られて、悪人が友の振りをしてエセ友になって騙しに来る。

本当に相手の事を思うなら、エセ友の人間関係をズルズル続けるのではなくて、さっさと縁切りすべきである。
相手をエセ友の立場から解放してあげるべきだ。
あなた自身がエセ友になっているから、相手をエセ友にしてしまう。
もしかすると、相手は何も悪くなくて、あなた自身が相手をエセ友にしてしまうから、あなたが100%悪いかもしれない。
堕落した相手が近づいてきたのではなくて、自分が相手を堕落させたかもしれないと考えた方がいい。
自国が相手国を堕落させてしまったのが100%悪いから、これからは覚悟をもって厳しく接すると決意すべき。
そもそも、相手国を援助できるほど豊かなのは、自国の先人が築き上げた財産であって、自分が築いた財産ではない。
もっと言えば、神が与えてくれた財産である。
その先祖の遺産や神の恩恵を勝手に切り売りして「群れたい欲」を満たしたのだから、堕落した相手にまとわりつかれる害を受けるのは天罰である。
親の遺産を使って群れて遊んでいたら、今は苦しんでいるようなモノだ。
まず、自分の力は、自分で築いたモノではないと気付くべき。

あなたは、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない。

申命記 8:17

神を信じて聖書を読めば、「群れたい欲」のせいで苦しむ事もなかった。

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