入れ墨と生存バイアス 訴訟すると節制を強制 昔のテレビ局の上層部が原作者に頭を下げる
1、入れ墨と生存バイアス
入れ墨を入れている人は天才という世迷言が存在する。
入れ墨を入れた凡人は、社会から排除されて表に出られなくなる。
残るのは入れ墨を入れた天才だけだから、入れ墨を入れた人は天才だという偏ったデータだけが見えるから、入れ墨=天才という偏った評価になる。
生存者バイアスとは、戦争中の米軍が飛行機の被弾ヵ所で生還した飛行機だけを参考にしてはいけない、という話だ。
生還しなかった飛行機は、被弾したら致命的な損傷で墜落する。
生還した飛行機は、被弾しても致命的ではないから墜落しない。
墜落しなかったから生還した飛行機をデータにして、被弾ヵ所だけ装甲を厚くするのは、間違った対処法である。
2、訴訟すると節制を強制
訴訟をすると、訴訟をしない場合に比べて、節制した慎ましい生活をする必要がある。
もし、訴訟をしておきながら、自分は何らかの犯罪をしたり、訴訟をされたら、訴訟しない場合に比べて何百倍も世間から袋叩きにされる。
だから、賢い人は、無闇に訴訟しない。
金持ちが訴訟をする場合は、相手が他の人に何らかのトラブルを起こした時に、その他の人に資金援助して訴訟を代わりにさせる。
トラブルを起こすトラブルメーカーは、たいていの場合、誰彼かまわずトラブルを起こすから、待っていたらトラブルを起こすため、その時に訴訟の資金援助を他の人にしたらいいだけ。
金持ち喧嘩せずという言葉がある。
金持ちは無闇に訴訟しないから、慎ましい生き方をする必要もないし、余計な争いに首を突っ込まないから無駄金を使わないため金持ちになれる。
自分で訴訟を乱発する人間は、自己顕示欲に飲み込まれている。
偶然で数億円の金を持った人間が訴訟を乱発するけど、自己顕示欲に支配されている。
相手が悪くても、自分が悪行をしてもいい理由にはならないけど、正義中毒になると相手が悪ければ自分が何百倍も悪行をしても赦されると思い込む。
裁判は神に属するモノ。
だから、神の信者なら無闇な訴訟はしない。
神の信者は、裁判を私益の道具にしない。
裁判で上手くいくように見えるのは、上手くいった事例だけを見ているからだ。
原告の方が悪い場合は、悪くない方が根こそぎ勝つ。
弁護士もピンキリである。
高度なところで活躍する弁護士も居れば、くすぶっている弁護士も存在する。
くすぶっている弁護士は、一躍、有名になるために、何らかのトラブルを抱えている有名人を無理やり弁護する場合がある。
こういうくすぶり弁護士の場合は、勝とうが負けようが、どちらでもいい場合がある。
有名人がトラブルを起こして、失血し続けて100%失血死するか、思い切って飛び込むか、どちらかを選ぶしかない。
ダメな方向へ飛び込むと破滅する。良い方向へ飛び込む必要がある。
スラップ訴訟をするのは、ダメな方向へ飛び込んでいる。
告発者と週刊誌の片方を訴訟するのは、分断工作のスラップ訴訟の典型である。
自分自身の犯罪が赦される方法は、被害者に謝罪して、損害賠償して、二度と犯罪をしない生き方をする事だ。
偽ファンやエセ応援団の言う事を有名人が真に受けると破滅する。
偽ファンは、有名人の応援をしているのではなくて、有名人の犯罪を擁護して、偽ファンの自分自身の犯罪を正当化しようと企んでいる。
犯罪者がのさばるようにしても、自分自身の犯罪は赦されない。
だからといって犯罪者を叩いても自分自身の犯罪は赦されない。
自分自身の犯罪が赦される方法は、被害者に謝罪して、損害賠償して、二度と犯罪をしない生き方をする事だ。
3、昔のテレビ局の上層部が原作者に頭を下げる
テレビ局は、原作者に頼っていないで、オリジナルでやればいい。
独創性がないなら、キチンと自分たちには独創性がないと言って、原作者に頭を下げて看板だけ使わせてもらえばいい。
見下して自分の方が上みたいな思い上がりをする。
自分の力で何もできない癖に、プライドだけは何倍も肥大している。
多分、昔の原作者が、自分の作品とテレビ番組は違うと言ったのは、テレビ局の上層部が頭を下げて、看板だけ使わせてくださいとお願いしたのだろう。
能力主義の上層部だと、創作ができない社内だと判断して、能力のある原作者に頭を下げる。
こういうのが本当の能力主義である。
能力がないくせに自分に能力があると思い上がるのは「エセ能力主義」である。
脚本家は創作能力がない癖に、原作者より自分に創作能力があると思い違いをしているから「エセ能力主義」である。
社会的地位を能力と錯覚している「エセ能力主義」である。
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