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テレビ害 相対評価の詐欺 国外避難は100%危険 薬害を推進した罪の償い方 被害特権の悪

1、テレビ害
テレビは洗脳装置でしかないから、自分の考えが無いなら見ない方がいい。

テレビを見すぎると、テレビタレントが叩かれると、自分が叩かれたと思って逆上するようになる。
テレビ業界は、人々がテレビ業界と同一視するように洗脳するから、テレビタレントが批判されると自分が批判されたように感じるようになる。
テレビ業界は、同一視するように洗脳してくる悪人だらけである。
テレビタレントなんか擁護しても、テレビタレントは視聴者に感謝しないし配慮しない。
俺は、テレビタレントを擁護しないし、悪いと評価するけど、裁くのは神に任せる。
自分とテレビタレントは別人格なのだから、区別した方がいい。
区別できないからテレビを見るのか。
テレビを見るから区別できなくなるのか。
テレビを見ていると、いつの間にか自分自身をテレビタレントと同一視をする思考回路を洗脳される。

肩書の割に人格の劣った人間を見ると、自分まで人格が劣化するから、見ない方がいい。

テレビは一方的な動画だから、洗脳される。サタン側が最初から洗脳する気で、そういう動画を主流にした危険性がある。
ネット動画は少しはマシだけど、やはり一方的な動画だから、自分の考えを持つ必要がある。
一番いいのは、紙媒体の文章だろう。それも、一回限りの発行しかしていないものがいい。
連続物や続き物だと、流されて誘導される危険性がある。

テレビ局は異常者の集まりだから、異常者がポジティブに紹介する人間なんか異常者だと思った方がいい。
ただ、異常者の集まりだからこそ、異常者を褒めるのに疲れて、まともな人間を紹介する場合がある。本当に時々だけど。
もしくは、まともな人間を紹介して、まともな人間を紹介しているテレビ局を演技しているのかもしれない。善人の皮を被る悪人みたいなもの。

テレビ局は、世間に嫌われるタイプの異常者を叩く。
テレビ局は、世間に好かれるタイプの異常者を持ち上げる。
テレビ局は、世論操作をしたいから、あるタイプの異常者を受け入れさせたいと思えば、世間が受け入れるように洗脳する。

テレビを見すぎると、いつの間にか犯罪タレントを擁護するようになる。しかも、擁護している自分に気付かない。犯罪タレントが批判されると、自分が批判されたと感じて逆上する。
テレビで犯罪タレントを何十回何百回と叩いて、ようやく犯罪タレントを擁護しなくなる。
テレビカルトの恐ろしいところである。
テレビが擁護すると擁護して、テレビが叩くと叩くようになる。

ネットでも、犯罪動画投稿者を擁護する偽ファンが存在する。

テレビを見すぎると、天の主に逆らう考え方を刷り込まれる。
人間の勝手な善悪観を良いモノのように洗脳される。
人間たちで何らかの価値観を決めていいと思い込んでしまう。
神の価値観だけが絶対善である。

十数年前に、毒家族がテレビを見れる見れないを取引材料にするから、イラついてテレビを捨ててから、俺はテレビの毒が抜けた。

2、相対評価の危険性
相対評価は、意図的に劣った奴を引き立て役にあげつらう危険性があるから、相対評価を信用してはいけない。
テレビというのは、意図的にテレビタレントよりも劣った人間をあげつらって、まるでテレビタレントが正しい存在みたいな洗脳をする。
テレビタレントがマシに見えるのも、テレビが劣った人間をあげつらうから、比較的にマシに見えるだけで、タレントが正しい根拠はない。
相対評価をする奴は、自分を評価する時は、自分より劣った人間を連れて来て引き立て役にしてあげつらうから信用してはいけない。
劣っていなくても劣っているとメディアスクラムを組んで世論操作をするから、相対評価をする奴らを信用してはいけない。

正しいかどうかは、絶対的な基準が必要になる。
テレビがやっている善悪観は、タダの相対基準でしかない。
天の主という絶対的に正しい存在を基準にするからこそ、何が正しいのか確定する。
絶対評価ができないのは詐欺師である。

天国へ入る基準点を100として、3の奴が2の奴をあげつらって引き立て役にしても天国へ入れない。
盗人にも三分の理と言われるぐらいだから、どんな悪人でも3%は正しい事を言えるのだから、悪人が3%の正しい事を言ったからと言って、全て正しいとは限らないのだから、僅かな正論で許してはいけない。
結局、悪人は正しい行動をしていないのだから、赦してはいけない。
3%の正論なんかで正しいと評価してはいけない。
100%の善行をする必要がある。
「3%の口先だけ」と「100%の行動」では、どちらを信用すべきか。

3%の正論だけで、善行をしない。
100%の正論だけで、善行をしない。
3%の善行だけする。
100%の善行と100%の正論を言う。

正論だけで善行をしないのは、ファリサイ派と同じである。
ファリサイ派は、必要以上に神の掟を捏造して、人々に守れと強要する癖に、自分は神の掟を守らなかった。
神であるイエス・キリストは、ファリサイ派のように自分の事を棚に上げる人間の事を偽善者と言って不幸だと断罪した。
不幸とは、地獄へ落ちる事である。

神は努力すれば割と受け入れてくれるから、心の底から神に立ち帰ろうと努力するなら、赦される。

19節
彼らは聖所の清めの規定には従いませんでしたが、神、先祖の神、主を求めようと決意しているのです。」
27節
祭司たちとレビ人は立ち上がって、民を祝福した。その声は聞き届けられ、その祈りは主の聖なる住まい、天にまで達した。

歴代誌下 30章 新共同訳

アダムとエヴァは、罪を犯して反省をしなかったから、神は反省する人が欲しいのであって、罪を犯さない人が欲しいのではない。
罪を犯さない人は存在しないと神は言っている。

列王記上 8:46 (新共同訳)
もし彼らがあなたに向かって罪を犯し、――罪を犯さない者は一人もいません――あなたが怒って彼らを敵の手に渡し、遠くあるいは近くの敵地に捕虜として引いて行かれたときに、
歴代誌下 6:36 (新共同訳)
もし彼らがあなたに向かって罪を犯し、――罪を犯さない者は一人もいません――あなたが怒って彼らを敵の手に渡し、遠くあるいは近くの地に捕虜として引いて行かれたときに、
コヘレトの言葉 7:20 (新共同訳)
善のみ行って罪を犯さないような人間は この地上にはいない。

神は罪を犯さない者は居ないと聖書に書くように仕向けたから、罪を犯さない者が欲しいのではなく、罪を反省する人が欲しいのである。
罪を犯さないのを基準にしていなくて、罪を反省するのを基準にしているのが天の主である。
人間社会には罪を犯さない事を要求する異常者がはびこっているから、警戒する必要がある。

天の主と聖書の絶対基準で物事の善し悪しを決めるべきである。
人間の勝手な基準で偉そうに他人の生き方を評価する奴が存在する。こういう奴は、何か上から目線の鼻に付く文章を書く。こういう奴は、神の絶対基準に逆らっている。
正しい基準である神の基準で人に口出しをするのは良い。
正しい基準がないのに人の生き方に口出しをするのは悪い。
神に従っている人間なら、神に逆らわない範囲内で私的に判断はしてもいい。しかし、普段から神に従っていない人間が勝手に判断してはいけないし、そんな勝手な人間の言葉を信用してはいけない。
非信者同士の争いは、どちらも似たり寄ったりだから、比較的マシな人間が居るのを相対的に評価できるけど、両方とも背教者だから、どの道どちらも間違いである。

自分勝手な価値観で他人の生き方に口出しをしている人間は、自分の気分で偉そうに戯言を言っているだけだから、信用してはいけない。
神の価値観で忠告する人は、神という絶対善の価値観でモノを言っているから、信用した方がいい。
俺もまだ立ち返っている努力をしている最中だから、俺の言う事は参考にしても良いけど、妄信してはいけない。
神に従っている人の意見なら、普段から絶対善の神を基準にしているから、その人の意見なら聞くべきである。

3、国外逃亡の危険性
陰謀論者の中には、日本は薬害で危険だから、海外なら安全と思い込んでいる種類が存在する。
何で外国が安全だと思い込めるのだろう。
外国人なら、自国である外国で暮らしていても安全だけど、日本人がその外国へ逃げても安全とは限らない。
どこの国の人間でも、国外へ逃げたら危険である。
実際は、どこも危険である。むしろ、海外なら100%危険である。
イエス・キリストは、外国へ布教しに行かなかった。自国の中で布教を完結させた。これは、迫害されても外国へ逃げてはいけないという意味だ。
イエス・キリストの死後に弟子たちが外国へ布教しに行った。
サタン側は、外国へ逃げる人間は確実に背教者だと判るため、そういう国外逃亡者を殺しにかかる。
神であるイエス・キリストは、国内でさえ逃げも隠れもしなかった。

それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。
イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。
彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。
イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。
そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。
すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」

ヨハネ福音書 18章3節から8節 新共同訳

神が完全であるように、あなたも完全でありなさいと聖書にある。

だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

マタイによる福音書 5:48 (新共同訳)

神であるイエス・キリストが迫害と冤罪に対して逃げ隠れしなかったように、俺も逃げ隠れしない。

もしかしたら、国外へ逃げろと言っている連中は、サタン側の手下かもしれない。確実に背教者だと判る人間をあぶり出すために、意図的に国外逃亡を煽っているのかもしれない。

国外へ行ってもいいのは、布教する時、奴隷として売られた時、飢饉で食料の買い付けをする時、戦争状態でダビデが亡命した時。
ただし、新約聖書で神であるイエス・キリストが迫害と冤罪に対して逃げも隠れもしなかったから、迫害と冤罪は逃げ隠れしてはいけない。

ユダヤの人々は山へ逃げろとあるけど、これはどう解釈したらいいのだろうか。

「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。

マタイ福音書24章15節16節 新共同訳

「山に逃げなさい」とは言葉だけだから、優先順位は、行動より低い。
終末の時は山へ逃げなさいとは、人間による迫害と冤罪は逃げ隠れしないけど、「獣が現れて、終末が始まる時には山へ逃げなさい」という意味だろうか。

預言者ダニエルが言う憎むべき破壊者とは何だろう。
ダニエル書7章から、四頭の獣の幻。

1獅子に鷲の翼が生え、翼は抜かれ、二本足で立ち、人の心を持つ。
2クマが横に寝て肋骨を3本咥える。
3豹に鳥の翼が4つあり頭も4つあり権力が与えられる。
4巨大な鉄の歯と、10本の角がある。

ダニエル書の8章では雄羊と雄山羊の幻を見る。

4、薬害の推進の罪を償う方法
薬害の予防接種を推奨しておきながら、今更、予防接種は危険だと言ったところで、罪滅ぼしにはならない。
薬害の罪は、自分が殺人を犯したと明言して、被害者に謝罪して、損害賠償して、二度と罪を犯さない生き方をしたら赦されるかもしれない。
ここまでやって、ようやく神に赦されるか赦されないか、というスタートラインに立てる。
そもそも、テレビ局とかは、薬害以前から何度も犯罪や世論操作の悪行をしているから、既に赦されなくなっている。
うわさを流すのも悪行と聖書にある。

出エジプト記 23:1 (新共同訳)
あなたは根拠のないうわさを流してはならない。悪人に加担して、不法を引き起こす証人となってはならない。
エレミヤ書 51:46 (新共同訳)
お前たちは心挫けてはならない。この地で耳にするうわさを恐れるな。一つのうわさがこの年に来れば、別のうわさが次の年に来る。この地に不法が行われ、支配者と支配者が争うなど、と
マルコによる福音書 13:7 (新共同訳)
戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。


退職して、テレビの悪行を全て暴露したら、元テレビ局員は赦されるかもしれない。

悪行だと判っていて悪行をすると赦されない。
悪行だと知らなくて悪行をすると、改心すれば赦される。
神を知らない時の背神行為は、改心して反省して二度と背神をしなければ、赦されて天国へ入れる。
薬害だと知っていて推進したら、改心しても赦されないで地獄へ落ちる。
薬害だと知らなくて推進したら、改心すれば赦される。ただし、薬害だと知った後でも、開き直って反省しないなら地獄へ落ちる。
知らなかったかどうかは内心の問題だから、他人では見破る事は不可能なので、死後の神の裁きに任せる。
人間が復讐しても、死ぬまで数秒が苦しいだけだ。そして、人間の手で死刑にすると直前に改心したら天国へ入れる。
数秒を苦しんで、改心で天国へ入れるチャンスを与えてもいい犯罪者かどうかを考えてみたらいい。
天の主は復讐の神だからキッチリ復讐してくれる。

サムエル記下 22:48 (新共同訳)
わたしのために報復してくださる神よ 諸国の民をわたしの下においてください。
詩編 94:1 (新共同訳)
主よ、報復の神として 報復の神として顕現し
詩編 149:7 (新共同訳)
国々に報復し 諸国の民を懲らしめ
ナホム書 1:2 (新共同訳)
主は熱情の神、報復を行われる方。 主は報復し、激しく怒られる。 主は敵に報復し 仇に向かって怒りを抱かれる。

復讐は神に任せるべき。
自分で復讐すると神に復讐される。

復讐する者は、主から復讐を受ける。 主はその罪を決して忘れることはない。

シラ 28:1 (新共同訳)

俺も自分で怒りに任せていたかもしれないから、反省して謝罪する。
申し訳ありませんでした。
神に復讐を任せる事にする。

薬害で虐殺するようなサタン側は、推進派の捨て駒をトカゲのしっぽ切りする。
殺人をする奴が捨て駒を切り捨てない理由はない。
重い犯罪をする者が軽犯罪をしない理由がない。
殺人をする奴が窃盗をしない根拠がない。
捨て駒の推進派も、よくこんなサタン側の連中を信用したモノだ。

5、両成敗
問題が起きる場合は、大抵、両方に問題がある。
俺は、薬害の推進派に対して断罪するけど、だからといって被害者に優しいわけではない。
加害者を全否定しても被害者を全肯定しない。
片方を全否定したからといって、もう片方を全肯定しないといけないルールは存在しない。
変な強迫観念に洗脳された人間は、片方を全否定すると、もう片方を全肯定しないといけないという思考回路に執着している。
別に、両方を全否定してもいい。
両方が背教者なら、両方を全否定すべきである。
「両方とも悪い」という結論で数分で済む話を、片方は正しいと思い違いするから、何万時間も時間をドブに捨てるハメになる。

被害者特権が欲しいからワザと被害に遭いに行ったのではないかとすら思っている。
被害は免罪符ではない。
ヘタに被害者に優しくすると、優しくされたくて被害に遭いに行く人間が出てくるから、被害者にも厳しくする必要がある。
疫病は神が背教者に対して下す天罰だから、妙な液体で天罰を蹴散らそうという考え方は、神を冒涜しているからだ。
被害者と言っても、背教者だ。
俺から見れば、両方とも背教者としか思えない。
背教者同士でいがみ合っているとしか思えない。
しかし、被害に遭った背教者だろうと、自分自身の「神に対する罪」を反省して、神に謝罪して、二度と罪を犯さないなら、赦される。

聖書で神は家族を捨てろと言っているから、家族が薬害に遭ったからこの話に納得できないなら、家族に固執して捨てられないから、神に立ち帰る事はできない。

神に立ち帰った人なら、加害者への復讐を神に任せて、自分は穏やかに暮らす。
平穏は信者の心にだけある。

問題が起きた時は、大抵、両方に問題がある。
信者なら、こんな注射はしないから、そもそも、問題にすらならない。
俺は、動物愛護だったから、動物実験の成果物は論外だから注射しなかったけど、神が動物愛護団体を遣わして守ってくれたから神に感謝してる。
信者なら、迫害や冤罪をされて死刑に成ろうと、逃げも隠れもせず、殉教を選ぶから、何の問題にもならない。
信者が殺されると神が怒って、ソドムとゴモラのように世が滅ぼされて、最後の裁きが前倒しになって、サタン側が地獄へ落とされて、焼かれ続けるか魂を消されるから、サタン側にとっては大問題だろう。
しかし、サタン側が困ろうが知った事ではない。何をやっても絶対に地獄へ落ちる連中のために、自分の神の道を曲げるのは絶対に拒否する。

6、毒親
俺の毒親は、特定の疾患があると就職できないのに、その疾患を隠ぺいする。何十年も隠ぺいしていた事になる。
犯罪を隠ぺいするような毒親だから、就職でも隠ぺいする。
背教者の家族なんて、どんな悪行を隠ぺいしているか判ったモノではないから、さっさと切り捨てた方がいい。

毒親は、俺の虚弱体質も受け入れないで先送りにして、そのまま隠ぺいして就職させようとしたから、就職先に迷惑をかける危険性があった。
まあ、あんまりにも虚弱体質が行き過ぎて、就職活動する体力もなくて就職できなかったから、運良く就職先に迷惑を掛けずに済んだ。

7、品質
品質に優劣がある事が判らない人間は、安ければいいという考え方をして、粗悪品で健康を損なう。

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