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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[090]羌族の友との別れ

第4章 カケルの取引相手、匈奴
第4節 ナオト、モンゴル高原に向かう
 
[090] ■2話 羌族の友との別れ
 西に向かうナオトにドルジが走って追いついた。
 舟寄せに戻って、「ナオトは匈奴に向けて去った」と知らされるや、急いでやって来たのだ。そのためか、頭を覆ういつもの布は手に握っている。息を整え、じっとナオトの目を見て言った。
「やはり行くか?」
「ああ、行く。ドルジ、お前にはいろいろと教わった。ありがとう」
「こちらこそな……。松花江を西に行くと大きな中洲が見えてくるのでそこを渡れ。フヨの原は広いぞ。走って渉るなど、聞いたことがない。ヒンガンの山並みが近くなると沼や濡れた土地が多くなる。わざとその地に入って、乾いたところを選んで進め。そうすれば鮮卑とは出会わずに済む。虫は多いがな」
 互いの腕を叩いて別れを惜しむ。
「わかった、ありがとう。また会おう」

「そうだっ……。前にヨーゼフから、もしお前が匈奴に行くとなったら伝えてくれと言われていたことがある。『無事でいればいいこともある』と、そう言っていた」
「そうか、何のことだろう。吾れが探している器のことだろうか……。ドルジ、それはいつ頃のことだ?」
「ついこの間、あの宿で食事をした帰り道だ」
 ――宿で浜の娘を見たときだ。あのときヨーゼフはすぐかたわらにいた。何か気付いたのだろうか……。
「では、ナオト、今度こそ本当にさらばだ。元気でな」
「お前もな、ドルジ。ヨーゼフにはよくわかったと伝えてくれ。それと、ハルを大事にしろよ」
「ハル? 誰のことだ?」
「宿の娘だ。お前の許嫁いいなずけだろ? 吾れは名は聞いていないが」
「アーイのことか……?」
「そうか、アーイという名なのか……。横顔が吾れの幼馴染みのハルにそっくりなのだ。フヨの入り江に着いてしばらく経った頃に一度だけ浜で見掛けて、そう思った。だから、吾れの中ではずっとハルと呼んでいた」
「ハルか……。それは知らなかった」
 確かに、ドルジはハルのことは知らなかった。しかし、ナオトの知り合いに似た娘を見つけてくれとヨーゼフに言われて、クルトがずっと探しているのは知っていた。ドルジはいまのナオトの一言ですべてを理解した、と思った。
 ――そうだったのか……。ナオトはそんなそぶりは少しも見せなかった。気付かなかった。アーイはヒダカの娘に似ているのか……。
「家が近く、一緒に育ったというだけのことだ。別に、どうということはない。ドルジ、ヨーゼフを頼んだぞ。もう歳だからな」
 もはや、ドルジの耳にナオトの言葉はいままで通りには入ってこなかった。気の毒というのではない。切ないというのとも違う。ただ、何か、申し訳ないような気持ちだった。そして、宿からの帰り道、ヨーゼフが口にした言葉の意味もわかった。
 ――鹿毛の背で揺られながら、あのとき吾れは、「なぜそんなことを言う」と思った。おそらく、ヨーゼフは何かに気付いたのだ。だから、わざわざ、あのようなことを言った……。

 駆け巡るドルジの心のうちとは別に、また会いたい、ナオトはもう一度会わなければならない男だという気持ちが、そのまま口を突いて出た。
「また会おう! お前が匈奴にやられてしまわなければな……」
「はははっ、その通りだな。ドルジ、いろいろと世話になった。吾れたちはまた会う。きっとな。……。お前、髪が見えているとなかなかいい面構えだな」
 頭に手をやったドルジは、布を付けず、手に握っているといまになって気付いた。
「……」
「別に意味はない。深く考えるな」
「……。そうだっ、ナオト。これを持って行け」
 革の袋に入れて首に掛けた笛を、袋ごと差し出した。
「ドルジ、お前、……」
「はじめは音が出ない。それでもいろいろやってみろ。お前ならきっとうまく吹くようになる……。松花江は深くて早い川だ。気を付けて渡れよ」
 ドルジは走り去るナオトの背を見送った。

 ――吾れは、いい祖父を持った。クルトとも知り合えた。だが、生きているうちにこのナオトのような男に巡り合うことは、またあるだろうか……?
 右に折れる前にナオトが振り返って手を挙げた。
「ドルジーっ、お前のタナハは次に会ったときに見せてくれーっ」
 ドルジが笑って頷き、一度大きく手を振ってそれに応えた。
 雲一つない夏空のもと、ナオトが走って行く先に小高い丘が見えている。その丘から、間の抜けたカッコウの声が聞こえてきた。

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