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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[091]予感

第4章 カケルの取引相手、匈奴
第4節 ナオト、モンゴル高原に向かう
 
[091] ■3話 予感
 夏の日射しを浴びて、ハンカ湖西岸を会所に向けて帆走する舟の中ほどで、カケルは、何か大きなものを失ったような気持ちで舟縁ふなべりに背中を預け、水音を聞いていた。
 ――カエデには、なんと話せばいいか……。

 フヨの入り江を出たときとは違って、ハンカ湖の上では櫂はすべて舟のうちに引き上げ、背丈二つ分の長さのを舟の後部のヘソにはめ込んで漕いでいる。梶取かじとりが好むからだという。慣れない者がやると櫓は暴れてすぐにはずれてしまい、ひどいときには指を怪我する。扱いが難しいのでこの舟で使うことはあまりない。
 いま梶を取っているのは長いことハヤテを手伝ってきた男で、もとは松花江の漁師だった。物心ものごころが付いたときには父母を助けて川で漁をし、魚を商っていたので、松花江だけでなく、フヨの川筋をよく知っている。そもそも、匈奴が駅を置く場所を佳木斯ギャムシにと決めたのも、この元漁師の奨めによってだった。
 松花江の岸には大きな村が多く、川魚を獲り、浅葱あさつきなどの葉物を採って行商すればなんとか暮らしは立つ。しかし、大きな家族を養うには不足だったので、十年ほど前にみなとのある海際に出てきてハヤテと知り合った。
 その元漁師が帆と櫓とを巧みに操り、カケルたちを乗せた舟はいい風を受けて、小さく波立つ湖面を南に進んでいた。先ほどまで風は弱かったのだが、この梶取は櫓の扱いに慣れていて、舟はそれでも滑るように進んだ。荷を下ろした空舟があと一艘、遅れまいと後から付いてきている。

 会所に着いた後にフヨの鉄を受け取って積み込むまで、舟は軽い。この梶取に任せておけば、このまま気持ちよく進むだろう。何度も顔を合わせていながら、これまでじっくりと話したことがなかったカケルは、その梶取にヒダカ言葉で声を掛けた。訊いてみたいことがあった。
「ハヤテは、いずれは松花江まで荷を運びたいと言っている。その松花江とはどういう川だ?」
 ――ナオトはいま頃、小走りにその松花江に向かっているのだろう……。
 ハヤテがフヨ言葉に直すと、櫓を操るフヨの梶取が笑顔を見せて答えた。
「松花江は至るところで右に左にと曲っている。よどみを作り、中州も多い。その流れを櫓を頼りに下って行くのは、やったことのない者には難しいだろう。流れ合わさってくる別の川も多く、しかも、支流というには大きすぎるような川ばかりだ。水かさも多い」
 何の気なしに聞いていたカケルは、あることに気付いて問うた。この時季、日は長い。右手に見えるか見えないかの低い陸地おかに日が沈むまでは、まだ間がある。
「この湖にも、それに、周囲の土地にも水が溢れている。いまの話だと川は何本もあるという。ところで、今朝けさ別れた匈奴は、この先、草原を荷車を引いて走る。のぼりがどれほど続くのかは知らないが、その原は緩やかに高くなっていくのだろう。
 それならば、西から東に向かって流れている川は一つや二つではないのだから、川筋を選んで帆と曳き綱とを頼りに遡って行けば、もしかすると舟のままでモンゴルの原まで行けるのではないか。どうだろう、舟で匈奴まで行くことはできると思うか?」

 何を言い出すのかという顔をしたハヤテだったが、そのまま訳して梶取に伝えた。
「ああ、そのことか」
 と、梶取はすぐに答えた。ハヤテを介して伝えられた話は実に驚くべきものだった。
「カケル、お前の言う通りだった。この梶取は爺さんから、自分たちの先祖は昔、西の馬に乗る民がダライノールと呼ぶモンゴルにある大きな湖まで、何日も掛けて小舟を操って行き来していたと聞いたことがあるそうだ。
 その名の湖は、匈奴の相手役が何度か口にしたことがある。海という意味だ。草原くさはらの真ん中に浮いているように見えるその湖は、雨が多い年には手前にあるアルグンという川と繋がるそうだ」
「そうか……。やはりモンゴルまで舟で行けるのか。ならば、もし行くとなったら、あとは舟の作りと帆をどうするかだな」
 カケルは、ふと、シタゴウを思い出した。
 ――あいつなら何と言うだろう?
「それにしても、カケル、なぜそのようなことに気が付いたのだ?」
「五年前に、れらヒダカ者がフヨの商人のために入り江の北で双胴の舟カタマランを作ったのを覚えているか?」
「ああ、覚えているとも。フヨの入り江では見つからないというので、息慎の入り江までその商人とお前のともをして鉄製の道具を探しに行った」
「そうだったな。あの商人は舟で鉄を運ぶと言っていた。吾れはそのとき、どこからどこまで運ぶのだと思ったのをよく覚えている。もしかするとあの舟は、モンゴルに向けて使われているのかもしれない」
「……。そう言えばあのとき、お前が『考えておく』と答えてヒダカに去った後も、あの商人は、次の春には本当に戻るのだろうかと気をんでいた。ヒダカの海を行き来できるような大きな舟をどうしても手に入れたい様子だった。
 いまでもときどき北の入り江やハンカ湖の会所で見掛けるが、あの舟は見ない。ヒダカにものを運んでいるのではないと思う。運ぶ先は入り江のある湾から、さらに北に行ったところだと聞いた気がする。つまりはこの辺りだ。それとも、北とはその先のモンゴルのことなのだろうか?」

「さっき、吾れはナオトのことを考えていた。なぜ、よりによって匈奴なのだと。匈奴の何かがナオトをき付けたのだろう。しかし、それは何だ?」
れらヒダカびととは違うというところか?」
「それはそうだ。しかし、それだけではないと思う。この前、十三湊とさみなとに帰ったとき、ナオトは一緒には戻らず、フヨの入り江に残ったとカエデに伝えた。カエデは驚きもせずにそうだろうという顔をして、ナオトには昔からそういうところがあると吾れに言った。そういうところとはと問うと、何か、考えもつかないことをするというのだ」
「そうか……」
「カエデは父を亡くして吾れのところに来ると決めた。ハヤテ、それは話しただろう? 義父ちちは、晴れた夏の朝に、漁をすると言って善知鳥の海に出たきり戻らなかったのだ。
 その前の晩、ナオトは、明日あしただけは漁に出るのを止めてくれと父に泣いて頼んだという。何かを感じ取ったのだろう。ナオトが涙するのを見たのは、後にも先にもそのときだけだとカエデは言っていた。ハヤテ、お前、どう思う?」
なにがだ?」
「そんなナオトが匈奴に向かって去り、吾れらは舟に残った。そして、その舟の上で、川を辿たどって行けば匈奴まで行き着くとわかったのだ。これはどういうことだろう?」
「……。カケル、お前の口ぶりはまるで、口寄せしてこの世とあの世を結ぶというヒダカの婆様ばさまのようだぞ」

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