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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[092]ハルビンを大きく北に迂回する

第4章 カケルの取引相手、匈奴
第5節 フヨの草原を走る
 
[092] ■1話 ハルビンを大きく北に迂回する
 ナオトは、ハルビンの北に広がる草原を小走りに西に向かっていた。カケルたちと別れてからすでに八日経っている。
 小さな川の両岸に広がる息慎ソクシンが住むというさとを眼下に見ながら、隠れるようにして山を越え、行き当たった大きな川を背負子につかまって泳いで渡った。その川が、「中州があるのでそこを渡れ」とドルジが教えてくれた松花江だった。
 その後、昼に歩いて夜は休むということを四日間続けた。人のいない野を行く。ナオトは心弾む思いがした。
 やぶる実を目ざとく見つけては腰の小袋に入れる。山イチゴのようにそのまま食えるものは口に含んだ。人気ひとけのない川では、折った細い枝の先を小刀で削り、ヒダカのやり方でうおを突いた。
 口から小枝を通して焼いて食い、余った身は骨からがして麻の小袋に入れた。
 そういう季節なのだろう。この野と林では食い物に困るということはなかった。
 そう何度もなかったが、人の気配がしたときには身を隠した。遠くないところに人の住む里があるのか、数匹の犬の吠える声がした。このときもやはり、急いで風下に避けた。馬の甲高いいななきが聞こえても同じように隠れた。そうして、気配が通り過ぎ、静まるのを待って、再び西に急いだ。
 夜は、月の巡りが悪く、はじめの頃は漆黒の闇に包まれていた。犬の遠吠えが聞こえた。ヨーゼフが教えてくれたように、犬ではなくオオカミが仲間を集めているのかもしれない。
「頼りない声でも騙されるな」
 と、ヨーゼフが言っていた。
 一匹ならまだよかった。だが、ウワォンオーーッという声が重なって聞こえてきたときには喉から上が固まって体が動かなくなった。
 一人でいるのが心細くなって、よさそうな木を見つけて登り、太い枝に横になった。夏のはずなのに、夜の森は寒かった。ヨーゼフがくれた鹿シカ革の袖なしを前でしっかりと合わせて幅の広い紐で留め、膝を抱えて朝を待った。
 木と木の間から射し込む朝の光をこのときほど神々しいと思ったことは生まれてこの方ない。腕と脚とをごしごし擦ってから飛び降りて、動き出した。
 とにかく西に進んだ。
 晴れてさえいれば迷うことはない。遠くの丘や山の稜線に目印を定め、の後を追って進むだけだ。ナオトは、湿地を見つけるとドルジに言われた通りにわざわざその中に入っていき、そのうちで乾いたところを選んでは、西へ西へとひたすら急いだ。
「ハルビンの北から西に急げば十日でヒンガンの山並みに差し掛かる」
 ヨーゼフの言葉をときどき思い返した。
 少し高くなっている丘から西を見ると、湿地越しに青い山並みが見えた。その手前に三角の小山がある。そこに上って先を見てみようと進むと、沼近くの草むらからケンケーンという鋭い鳴き声が聞こえ、草がさわさわっと揺れた。
 ――キジだ。
 本当であれば土地が乾いて見える右手に進むのだろう。しかしナオトは、自分の勘を信じて、もともと上ろうとしていた小山を視界から外さず、キジの鳴き声がした南へと向かった。
 行く手に二つ目の大きな川――嫩江ノンウラ――が見えた。北から南へと流れている。その川は少し下流で二つに分かれている。
 ――流れの向きは違うが、この川は何日か前に泳いで渡ったあの川に続いているのではないか?
 そう思ったが、確かめようがない。
 ――小山に上るまでもない。川の向こうにいくつも重なって見えているあの山並みがヒンガンに違いない。

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