今日も我が家は「私が生まれた時」父の事

はぁ〜💦すみません🙇‍♀️

やっと写真の添付の仕方が出来ました。

でも・・・ちゃんと出来るのか?心配です。

これからもつまづきながらの投稿が続きます、どうぞご了承くださいますようよろしくお願い申し上げます。🙏


私は若い両親の元、スクスクと育ちました。

父は保険会社の外交委員、母は近くの総合病院で看護師として働いておりました。

父と母の出会いは戦後、東京から焼け野原を命からがら帰郷してきた父が結核を患い国立病院に入院、看護師になったばかりの母が担当したのが出会いだった様です。

父は、そのころ流行っていた映画「青い山脈」の中の登場人物ガンちゃんと言われた人によく似ていたため昔を知る人(特に母の看護師仲間)は父を「ガンちゃん」と呼んだ。

今だに、どの俳優の方がガンちゃんなのかよく分からないのです。

私、極度の面倒くさがりで追跡出来ませんでした。

父は山が好きで山に伴なう自然が好きでした。
だから、春や秋には山菜とりやきのこ狩りで山登り、冬はスキーと暇さえあればとにかく山に行っておりました。

何歳だったのだろう?遠い記憶の中から父は大きな荷物を持ち、スキーを担いで多分私は母におぶわれて奥日光湯本スキー場に行った事がある。

どんなルートで行ったのか?途中、今市(今では日光市)のお蕎麦屋さんに立ち寄った蕎麦つゆの匂いが温かい気持ちになったのを覚えいる、外はかなり冷え込んでいた。

朝早くだった様な気がする、それから路線バスに乗り酒饅頭の店の前に少し停車してくれ母は熱々の酒饅頭を食べさせてくれた。

私はあまり好きではなかったが数回行くうちにあの酒蒸しの匂いと湧き上がる蒸気の光景に毎回、母は買っていた様に思う次の日には必ずカチカチになってしまうのであった。

私は普通の長靴に紐で括り付ける下駄履きと言われる赤い木製のスキー板を履いて竹でできたストックで母に引っ張ってもらい登っては支えられながら滑るを繰り返していた。

その頃の湯本スキー場は外国人の方が多くて小さな私は注目の的で必ず何人かに声をかけられていた。
きっと寒かったのか早めホテルへの帰り道、湯畑により、遊んでいると外国人のご婦人に話しかけられて母がここが源泉ですと「ホットスプリング」と説明していた。

何故か、その言葉が印象的でした。

ホテルへ帰ると濡れた手袋や帽子を大きめのストーブの前に置き、隣りの乾燥室にスキー板を預けて、冷えた体を温める為、硫黄くさい白く混濁した湯のお風呂に向かった、しかしそのお風呂は熱くてなかなか入れないので、大人達が水が出ているほうへ呼んでくれるのだった。

私はホテルでの食事の記憶が無い、もちろん小さかったせいもあるが、その頃ホテルでは部屋にお茶が用意されていて必ずお茶菓子で甚五郎煎餅が付いていてその塩味のお煎餅が大好きでせがんで食べていたせいでもあるのだ。

これが私の記憶にあるスキーデビューなのです。

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