「今日も我が家は」(ノスタルジック・エンパイア)
私は中学生の頃からロックバンドの「Queen」が大好きだった。
日本人の私と同世代の女子のファンがQueenを支えたと言っても過言では無いと思っているのです。
高校入学の新しいクラスメイトの中にあらゆる私物が黄色いタータンチェックのチンと呼ばれる女の子がいて
「S・A・T・U・R・D・A・Ynights!」と毎日、叫ぶように歌っているのです。徐々にベイシティ・ローラーズ ファンが彼女に感化されて増えていくのでした。
どちらかというと「KISS」の方が対等していた様に思うのですが、何故か私がQueenのファンと知ると無意味に挑みかかってくるのです。
そんな状況の中を私はうんざりしているのでした。
とても私と同じ様な趣味の人はいそうにないと決め付けていたのです。
ところが、部活を美術部に決めて自己紹介の時にQueenファンである事を言うと先輩の中にも、「私も・・・」と他にも何人かいて、何が良かったのか私を追いかけ入部してきて「エレクトリック・ライト・オーケストラ」のアルバムを無理矢理貸してくれた不思議な人も居たりしたのです。
さすがマンモス高校だと思ったのです。
当時は遠方からの子の為に寄宿舎がありそこで生活している人もいるのでした。
とにかく部活動だけはとても充実して楽しかったのです。
高校生活に希望がもてなかった私は少しずつ楽しめるようになっていくのでした。
そしてそれらの音楽は彼を通して幅広くなっていくのです。
ちょうど街にはレッド・ツェペリンの「天国への階段」、ディープ・パープルの「ハイウェイ・スター」「スモーク・オンザ・ウォーター」やE・L・Pの「頭脳改革」.「タルカス」もちろんQueenのNoやジェフ・ベックなど往年のロックが流れていてリアル・タイムでそれらを聴いていたのです。
今、思うと70年代の洋楽の凄い年代だったと思うのでした。
彼と一緒に居る事で機会が無ければ聴く事もない音楽が全て生で手を出しさえすれば側にある時代なのでした。
当時、栃木会館と言うホールで「カウント・ベイシーJazzオーケストラ」や「グレン・ミラー音楽団」それこそ今は亡き人たちもリアル・タイムで聴けていたことを誇りに思うのです。
その頃がフュージョンというジャンルが流行し始めてマンハッタン・トランスファーやシャカタクの「ナイト・パース」を宇都宮の文化会館で聴いたのです。
正に音楽も時代の転換期を迎え変化していくのを目にしていた贅沢な時なのでした。
今では信じ難いのですが宇都宮でも多くのJAZZ・MENが来日してソニー・ロリンズ、ロン・カーター、ウィントン・ブラホード・マルサリス兄弟もオスカー・ピーターソンBig4も観られたのです。
マイルス・ディビスを新宿西口広場、スタンリー・クラーク、チック・コリア、日野皓正を田園コロシアム「ライブ・アンダー・ザ・スカイ」も観ていて白熱するライブを体感しているのです。
その頃、渡辺香津美さんを近くのライブハウスで聴く事が出来ました。(回復する事を祈っております。)
彼はギターなのでジョー・パス、ジム・ホールが好きなのでした。
パコ・デルシアや昔の人であるが、ジャンゴ・ライン・ハルトも好きなのでした。
オスカー・ピーターソンBic4も何回か観に行きましたし・・・
ジャンゴは指が3本しか無かったそうなのだった。
車椅子で登場して来たマイルスのトランペットの「パッ」と一音出しただけで新宿西口広場の会場がどよめいたのが忘れられないのです。
現在の新宿の様子が信じられないただだだっ広い工事現場の様な場所でした。
それから、彼の大好きだった沢田研二さんのライブは何回も見に行きましたし、タイガース武道館復活ライブも観に行ったのです。
そしてオリジナルの曲の他に「グランド・ファンク・レイルロード」「イエス」「ピンク・フロイド」「ブラック・サバス」「ロリー・ギャラガー」は彼のライブで良く演奏されていました。
本当に今までどれほどの音楽と触れ合って来たでしょうか?
ちょっと異質でありますが、結婚してからキース・ジャレットやウクレレ奏者のジェイク・島袋なんかも見ています。
もう、そのころの私は親に配慮することもなく彼に会っていたし、両親も半ば諦めている様なのでした。
でも、やはり衝撃的に記憶にあるのは彼の職場であると言えるのではないでしょうか?
彼の職場はオリオン通り中頃、ヒカリ会館ビル最上階にありました。
もう、その頃は何回も制服のまま出入りしていて顔見知りも増えていました。
当時、宇都宮には大きなキャバレーは3つあって、夜来香・WORLD・エンパイアがあり、ソープランドや飲み屋街がその周りを埋める様にありました。
その中でも彼はエンパイアのビックバンドに所属しており、バンドの控え室の様な小部屋には赤い大入り袋が無数に貼ってあり、そこにタバコ臭いのおじさま達がぎっしり詰め込まれているのでした。
そこで打ち合わせをしたり、楽器のチェックをしているのです。
キャバレーは何処か異質な独特な匂いがするのです。
それは決して嫌な匂いでは無いのだけどタバコと化粧品とホールの独特の香りといえば良いでしょうか。
大入り袋には有名人の名前があり、数々のお礼の言葉も添えてあるもの多くあるのでした。
その時代、歌手、エンターテイメントの人達は自分のオリジナル曲をいかに気持ちよく演奏してもらうか?大変だったと聞いたのです。
それはバンドマンの裏話しで、あまりにも態度の悪い歌手には本番で歌えなくする事も出来るのだそう、だから、バンドマンには気を使うのらしいと聞いたのです。
彼はその中でも最年少で20歳であり、私は17歳なのでおじさん達にカラカワレ可愛いがってもらっているのでした。その時期メンバーになったガタイの大きいハーフのジョージは、モジャモジャ頭でグレーの瞳で私をおチビちゃん呼ばわりし彼を「女好きの悪い奴!」と呼ぶのです。
それはギターのボディーを女性に例えて「毎回2人は取っ替え引っ替えなんだぞ!」と言う大人のジョークなのです。
楽譜の読めなかった彼を特訓してくれたベースのSちゃんとドラムのC田さん「最初は本当に怖かった!」と彼は言ったのです。
でも、その実は陽気で真面目な人達なのでした。
バンド・ネームは
「H・KとJazz.nova・11」と言つたのです。
マスターは、サックスを吹きながらタクトを振っているのでした。
やはり、そこは夜の繁華街、人が集まれば色々あるわけでおじさま達の笑えないジョークや下ネタにも慣れていったのです。
私の知らない大人の事件が起きたりするのは仕方ないのかもしれないのでした。
しかし、私は自己責任である事、緊張して対処していたのです。
私達は身近な大人に見守ってもらっているのでした。
つづく
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