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びよーのなまえをかえてみる?

昨日の記事の続きとなる。(書き足りないのでつらつらと書きます)


外交する用に自分を装飾し、見た目に手間暇をかけるのは、社会人・大人のタシナミ、義務なのかもしれないという思想は欠如していた。
最低限の清潔さは保っていたと思うけれど、どうだろうか。失礼だっただろうか。だとしたら申し訳ない。

メイクをしないと恥ずかしいという言を聞いたことがあるが、恥ずかしい?なんで?と思うのは、羞恥心が欠落しているのだろうか。

過去にはまつ毛パーマなんかもしたりデパコスを求めたりもしていたが、いまはすっかり、ファンデーションもチークも持っていない。ただ、残ってる茶系のアイシャドウを時々眉毛を描くに使っている。

基礎化粧品の手当てを何年もしないと人間どうなるか。
わたしは「べつに普通」と思っていたが、最近、心から信頼する人に、「宝の持ち腐れ」との一言をいただいた。
その人からすると、わたしが不思議でならないそうだ。

もったいないんだそうである。
わたし、もったいない女。

わたしは「残念な人」という印象を与えている。

(そういう人には悪が寄り付くのは先の記事に書いた。)

ガーン。である。そ、そうだったのか・・・。

それでも20代は人並みに美容に勤しんでいた気がする。

しかしある日、私のほうでもいろいろあって、ネットで「化粧水など美容を一切しなくても自分は綺麗だ。化粧品業界の陰謀だ。基礎化粧品を使ったらば最後、死ぬまで使い続けなければならないのだ。みんな踊らされている。人間のヒフには常在菌がいくらいくら・・・」といった過激な記事を見て、真偽は分からないがノックアウトされ、パタリと手当をやめてしまったのである。

楽だった。
お金もたまる。

連鎖していくように自分の見た目にこだわることはなくなった。バーバリーのトレンチコートは古着屋さんの500円のコートになり、お姉ちゃんの着てないパーカーになった。洋服はしまむらで十分。美容院にもいかない。

それがいけなかったのかもしれないが。

そうしてわたしはいよいよ「残念な人」になっていった。

決して安い服が悪いわけではない。しまむらでも古着でもオシャレに着こなしている人はいる。わたしにはセンスがなかったようだ。

なんとなく、自分という容器が可哀そうになってきた。世界に一つしかないのに、主にないがしろにされておる。

しかし、美容をほうっておいた人が、いまからまた、さっと切り替えられるだろうか?どうしたらいいかなあ。

美容という名前も悪いんじゃない?と思ってしまう。

美容ガンバルという波も時折り来るが、去ってしまうのだ。

美容いらんねん。
美しくなりたいと思わないねん。
美容じゃないねん。
おまじないや。
悪霊退散や。(?)

自己愛といったらいいんかなあ?なんといえば良いかはまだ模索中である。自分を愛さないと、人生は好転しないのだ。といったら語弊があるか。
美容のこと愛さんと言おうかな。

「残念な人」には不運が舞い落ちるぞ。「不幸そう」「さえない」「きちゃない」には残念ながらろくなことが起こりません。

だからとことん貧乏人だと、、、とか、精神的な病でそういうことに手をかけられない人は、、、、、と、この話題、わたしの思考は続いていくのだが、いったん締めようと思う。

Xの方では、美容も頑張ると言っているのだが・・・。

お読みいただいてありがとうございました。

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