見出し画像

花束ではなく、一本の花を

ここでのサブカルな人とは、あんまりメジャーではないけど、知ってる人は知ってて勢いのある、いわゆるカルト的人気のある作品・コンテンツが好きな人のことを言ってます。
間違ってもサブカルっぽいモノを好む人ではなく、好きになったモノがたまたまサブカルっぽくなっちゃう人であることを頭に入れといてほしい。(まあ、その中間でも良い)

僕はこの映画が大嫌いです。
当時これを見終わった時とてもイライラさせられた記憶がある。
というかクソムカついた
ただ、世間の評価はそうではなく、むしろ大絶賛。
「リアルすぎて辛い!けど泣ける!」だとか「私もこんな恋愛してた!懐かしい!」、「マジエモい!」みたいなコメントが大量にあった。

恋愛映画って、「良いなー、私もこういう恋がしたいなー」って思いながら見る「ファンタジー的見方」と、「あーこういう恋愛昔したなー」って思いながら見る「あるある的見方」の大きく二つの見方ができて、どっちでも楽しめる。
ただ、この恋愛映画はそれだけでは語れないというか、語るべきはそこではないんですよ。それは表層の表層に過ぎず、深層の部分が見落とされている気がします。

この映画はクソ映画なのに、「ムカついたのは俺だけ?」「なんで俺はこんなにもムカついてるんだろう」って、ずーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと思わされてるのもあって、最近は逆に良い映画かと思うようになってきた。

今回は、なぜムカついたのかを説明したい。

まず、登場人物がしっかりと作り込まれてないというか、登場人物(”現代の若者”)の解像度がめちゃくちゃ低いのが、ムカつく。(逆に高いのかもしれない)
特にサブカル好きな主人公二人の人物造形がマジでひどい。
主人公である大学生の男:麦(菅田将暉)と大学生の女:絹(有村架純)は、どっちもめちゃくちゃサブカル野郎なんですよ。
この映画では、二人のサブカル度を表すために実在するコンテンツがめちゃくちゃ出てくる。
天竺鼠、きのこ帝国、Awesome City Club、今村夏子の「ピクニック」、etc…
俺は本を全く読まないから今村夏子とかは分からないが、音楽とお笑いは多少分かる、天竺鼠をチョイスする所とかマジでサブカルぅーって感じ(笑)
確かに天竺鼠はめっちゃ面白いけど、普通の人は「俺(私)天竺鼠好きなんですよー」って言えないくらいの所。
「私お笑い分かってます」感がどうしても出てしまい、自分自身の面白さとかセンスのハードルがめちゃくちゃ上がってしまうお笑いコンビ。
他の例を挙げると、ランジャタイ、金属バットとかね。

音楽のチョイスも”The”って感じ(2015年くらい)のサブカル。
主人公たち(2015年くらい)はきのこ帝国好きだし、映画の最後に、主人公たちの出会いを想起させるように出てきた若いカップル(2020年)が羊文学の話をしてるように、「私このおしゃれさ、センスの良さ分かってます、ドヤァ」みたいな匂いがプンプンしてしまうような、サブカルの中でも結構おしゃれめなモノが好みだということが伺える。

まあ、実際そうで、主人公はめちゃくちゃ知識があるちょっとおしゃれなサブカル野郎たち。

ザコオタクの俺程度では全くカバーできないほどのサブカルコンテンツが列挙されていく。
とにかく主人公たち二人は、知識がめちゃくちゃある。
だから、そんだけ知ってるんなら結構大人というか一風変わった意見だとか現代の若者っぽくない価値観が垣間見えるのかなーと思って見ているとこれが大間違い。

全くと言っていいほど深くない。なんなら浅すぎる。
見れば分かるけど、「いやその知識量とその発言するんなら、そんな行動せんやろ!!」とめちゃくちゃツッコミたくなるほど。
全体的に思うが、特にそう思うシーンの一つ目は、冒頭のイヤホンの話。

〈冒頭のシーン〉
恋愛漫画でよくあるイヤホンを左右に分けて同じ音楽を聴いているカップルに対して「あのカップル。きっと音楽好きじゃないよ。左右のイヤホンで違う音が出ることを知らないんだよ。」みたいなことを、麦(菅田将暉)と絹(有村架純)が、それぞれ違うパートナーに言い、麦(菅田将暉)と絹(有村架純)は、その見知らぬカップルを諭そうとするシーン。

これ冒頭だから「あ、この二人はこういうこと言うタイプなんだー」って思いながら見進めていくと、これが最後までノイズになる。

「いやいや、そんだけの知識もあって、押井守を神だと崇めている奴らが、イヤホンはLとRから出てる音が違うという基本的知識を知らないわけがないし、(麦と絹は付き合ってた時に、イヤホンを左右に分けて同じ音楽を聴いていると、知らないおじさんから指摘された過去がある)その知らないことをおじさんに指摘された後に、その知識をドヤ顔で現在のパートナーに披露するわけない、ましてや、その知識を何の関係もないカップルにわざわざ教えに行くなどという愚行をこの主人公たちがするわけないやろ!!!!」って思う。
詳しくは後述するのですが、主人公達二人(特に麦)は知性主義的・センス至上主義的な選民思想を持っていて、情報弱者を見下している痛キモ野郎です。
めちゃくちゃ知識あるから、主人公達からしたらたぶん大半の人間は知識ない奴らだと思うんですよ。
だから、いちいち知識ないやつに入れ知恵してやろうとしてたら大変だと思うし、やらないと思うんですよね。
ていうか、普通しないですよね。赤の他人にわざわざ知識を教えに行こうなんて。
だってめちゃめちゃキモイもん。
洋画で出てくるクソ明るいフランクな奴ならまだ理解できますが、一般的な日本人、ましてや押井守を神って言ってるような人達にそんな芸当(お節介)ができるはずがないですよね。

マジで考えにくい、だから全く感情移入できない。
しかも、その知識別に大した知識でもないし、自慢にもならん。

そして、二つ目はショーシャンク・押井守事件。

終電に間に合わなかった社会人の男女2人と、主人公たち2人の計4人はなんやかんやで居酒屋みたいなところで話し合う。
その時に麦(菅田将暉)は、同じ空間に押井守を発見し、同席してる社会人に「あそこに神(押井守)がいます」と興奮しながら言う。
(押井守とは、アニメとか映画が好きな人なら分かる人物、攻殻機動隊とかうる星やつらのビューティフルドリーマーとかの人)
でも、社会人二人は押井守のことが分からず、スルーするので、麦は社会人に対して「映画とか見ないですか?」と質問する。
すると、社会人は「見るよ~俺結構詳しいよ?ショーシャンクの空にとか良いよ!」みたいなことを自慢げに言う。
そしたら、麦(菅田将暉)は「ハッ!(笑)自慢げに言っといて、ショーシャンク出してくるとかゲキ浅じゃん!ありきたりでつまんな」って感じで露骨につまらなそうな態度を出す。

いや、分かるよ?、俺自身若いし、オタクだから分かる。
若くて、中途半端に頭が良いとマジで「俺分かってる、センスあるわー」ってなっちゃうよね。みんなそう思っちゃう時期あると思うし。
気持ちはすごい分かるんだけども、それは思ってても心の内に秘めておくものであって、それを他人に出してしまったら、それはもうめちゃくちゃダサい。「こいつセンスねぇなー」って思うのはギリ許せる、ただ、「は?なんでそんなのも知らないの?」って感じで、相手を見下した態度を出すのは、マジでキモイ。そもそも終電ギリギリまで働いてるんだからお前みたいな暇人のように映画見る時間なかったかもじゃん。なんでその人を馬鹿にできんだよってなる。なんか危害を加えられたんなら良いけども。
この主人公たちの価値観は、たぶんオタクが冷遇されていた頃のキモオタクの価値観なんすよ。これはたぶん、顔が良くなくて、人とのコミュニケーション、運動、学業などが得意じゃなくて、学校とかのコミュニティであんまり良い思い出がなかったオタクが、メインカルチャーから外れた知識・みんなが知らなそうな知識を蓄えることで、理論武装ならぬ知識武装でカースト上位の奴らを心の中で見下すという小さな抵抗から生まれたはずなんですよ。
合ってるか分らんけど、カッコつけて言うなら「知性主義的・センス至上主義的選民思想」

こんな価値観を持ってる人は、絶対にどこかしらコンプレックスがあるはずなんですよ、じゃないと令和の時代でこんなに捻くれてない。(特に菅田将暉の方)
どう考えても顔がブスで、中身がキモイはずなんですよ。
彼女の親から「ワンオクとか聴かないの?」と言われて、「あ、一応聴けます」と言うぐらい気色悪いんやから、この主人公たちはブスでキモくて陰キャでオタクであるはずなんですよ。
なのに、見た目はカースト上位。
こいつらのどこにコンプレックスがあるんだよ。
(美男美女にもコンプレックスがあるのは承知だが、今はそんな話をしていない)
あるのかもしれないが、主人公たちに何かコンプレックスがあるような描写は全くない。
分かってもらえないというコンプレックスはあるのかもしれないが、麦(菅田将暉)は分かってない奴を見下すという選民思想がめちゃくちゃ出てるからコンプレックスとは少し違う気がする。
映画内ではルッキズムを完全に度外視しているので、美男美女なのにめちゃくちゃ捻くれているおしゃれサブカルキモオタ野郎というアンビバレントな人間が爆誕してしまっているんですよ!
そこがマジでめちゃくちゃな違和感。
バチクソヤリマンのお嬢様、雨の中猫を拾うヤンキー、オタクに優しいギャル、眼鏡を外したら美男美女になる地味メガネ、これらは存在はするだろうが、どう考えても稀有な例だろう。
これらと同じくらいアンビバレントな登場人物達に俺たちはどうやって感情移入すればいいんだよ。
感情移入しようとしても、彼らが好んでいる作品・コンテンツから予測される行動原理から外れるからマジでイライラする。

ワンピースで言うと、尾田栄一郎を神って言ってる奴が食べ物を粗末にしたり、他人を物扱いしたり、他人の自由や平等を奪ったりしてる感じですよ。
「尾田栄一郎を神って言うんなら、そんなことしねぇよ!!」ってなる。

ということはですよ!!
これは「押井守を神」って言ってる人達や、作中に出てくる作品・コンテンツに救われて、それを本気で人生の行動原理・柱としている人達へのめちゃくちゃな冒涜なんですよ。
「押井守を神って言ってる奴ってこうだよねー」「尾田栄一郎を神って言ってる奴ってこんなんだよねー」って感じで映画に出してるけど、全然違うし、当事者からしたら、そういう風に見てる・決めつけてる感じがしてマジで気持ち悪く感じると思う。

あのオタクが嫌われるようになった事件の思い出す…。

1989年に発覚した東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件において、犯人が収集していたアニメや特撮等の多数のビデオテープや漫画雑誌を、マスコミが事件と関連付けて盛んに報道したことで、世の中でオタクバッシングが起こり、皮肉にもその「おたく」の存在が世間一般に広く知られるようになった。そのため、当初は漫画やアニメ、コンピューターゲーム、アイドルなどの趣味を持つ人たちと、社会性が欠如している人間や対人コミュニケーションが不得意な人等を、十把一絡げにして指し示す否定的な意味合いを持つ言葉として使用されることが多かった。

港区に住んでるだけで港区女子と思われたり、K-pop好きな奴は大体整形してるとか言われたらムカつかないですかね?

そこまでじゃないかもだけど、そんくらい「何言ってんだ?実態は全然違ぇよ」って感じ。
因果関係じゃなくて、相関関係で物事言ってるって感じ?
リサーチ不足だから、マジでリスペクトが全く感じられない。
これが押井守だけじゃなくて、ほぼ全てに共通する。

リサーチがめちゃくちゃテキトーで、そこに愛なんてものはないんですよ。
みんなが好きな作品・コンテンツ、大きく言うと”文化”がただ単に、「お前らこういうのが好きなんでしょ?サブカルチックな人達ってこういうの好きなんだもんね」っていうあるあるネタに使われているだけのように感じてしまう。
サブカルというか文化がメイン・テーマであるはずなのに、この映画って主人公達がサブカルじゃなくても成立するんですよ。
ワンピースやドラゴンボールのようなメインカルチャーでも成立するのに、わざわざ多くのサブカルチャー、しかも絶妙なチョイスのやつを扱ってるんだからもう少しなんかあったよね、サブカルである必要性があんまりない時点で文化に対する愛が感じられない。
それがクソムカつく。
サブカルしたくて、オタクしたくてやってるんじゃなくて、本気でそれが好きなんですよ。
何なら、サブカルチャー、オタクカルチャーだと思ってなくて、自分のなかではめっちゃメインなんだけど!!ってなってる人達もいると思う。
なんかクリエイターの見下した感じがすごい伝わる。

そして、ずっと「君たち若者はこういうものが好きなんでしょ?」っていうスタンスが気に食わん。若者たちに媚びてるような映画にしか見えない。

最近尾田栄一郎が理想の主人公像を語っていた。

この映画はクリエイターが、「どうやったら若者達にこの映画はウケるかなー」って考えて作った映画であり、尾田栄一郎の言う「こんなキャラが好きな人がいるハズ。は、やめてください。」のまんま。
「お前ら、こういうの好きでしょ?」って言ってきてるかのような映画、売れるため・若者にウケるための映画で、主人公達から・作品全体からクリエイターの愛が全く感じられない。

そして、リサーチ不足なのに色んなサブカル要素をキャラにペタペタ貼り付けているだけだから、人間性が全く見えてこないし、アトムと違って、全く血が通ってない。

これはYouTube迷コメント集で有名な激痛コメントなんですが、色々ツッコミたくなる要素満天なんですよね。
作品に対して当てはめる言葉のチョイスが全体的になんかおかしい奴。
「なんか違うくね?こいつちゃんと見てねーだろ」って思ってしまう。

この映画の主人公達はまさにこのコメントって感じ。
めちゃくちゃサブカルコンテンツの名前を出すけど、全く的を得ておらず、なんなら全然見てなくてファッションとして言ってるだけだろって感じで全く血が通ってない作り物にしか見えない。
だから映画を見てる間ず―――っとノイズになってる。
どういう人間かが全く分からない。
こんなにリアリティないのに、なぜみんなは「リアリティ高すぎてマヂ辛い」などと言うのか僕には全く分からない。
これがリアル??どこがリアルなんだよ、どこまで行ってもファンタジーだろ。
(クリエイターが提示してきたよくある「あるあるネタ」に共感して、言っているのであろうが)

「いやいや、逆にリアリティ高いと思うよ。」
「たぶんみんなこんな感じじゃね?」
「そもそもこの主人公たちはそこまでのサブカルじゃないと思うよ?」
「確かにめちゃめちゃ知識はあるけど、なんか広く浅くじゃない?」
「天竺鼠のライブも結局二人とも大した理由もないのに行かなかったし」
「お前だって尾田栄一郎のこと神って言ってるくせに漫画もちゃんと読んでないし、
ガチ勢の人達のように熱量ないじゃん」
「だからこれそういう社会風刺の映画じゃないの?」
「お前ら若者よ、そんな感じでおしゃれぶって、サブカルぶって、賢ぶってるけど、全然知識ないじゃん!」
「お前らこの映画見て悔い改めろよー!
っていう若者に向けたメッセージ性のある映画なんじゃないの?」

「いやー、俺もねーそれは考えた。逆にリアルなのかもしれん、と。」
「確かに社会風刺という見方はあると思う。でもねー、映画を見る感じその熱いメッセージは感じ取れないんだよね。」
「そうなのか??って思いながら見進めると、何も回収されぬまま終わる」
「だから、社会風刺ではないと思うんよね。たまたまそういう風に見ることができたってだけで。」
「みんなの反応からしてもそれは証明されてると思う」

「確かに、俺もみんなも好きだというコンテンツを四六時中追ってるかと言われたらそうではないし、少しかじっただけで分かったフリしてる。正直他人から見たら浅いと思われるだろう。」
「でも、人はそれぞれ年齢が違えば、環境も違うし、使えるお金と時間も違う。その中で、様々なコンテンツを好きになっていく。」
「そりゃー、知識とかに差は出るやろ。子供とか浅いに決まってるやん。みんな若かった時は浅かったんだから」
「現代の若者の薄っぺらさ・空虚さを描きたかったにしても、この描き方は酷いと思う。それを描くのならそれなりの理由やストーリー、背景を俺みたいなバカにも分かるように描写すべきだと思う。」
「ガチでやってたらめちゃくちゃセンスないし、何も考えてなくてこのクオリティなら手抜きすぎでしょ、滲み出るお仕事感。」

うーん、俺には合わな過ぎた。

そして、あるあるネタにくらった人達が「わあ、こんな恋愛良い~」「あーこんな恋愛してた~」ってなってキャッキャしてんのも、なんかすごい気持ち悪い。偏見だけど大体そういう人達ってサブカルっぽくない気がする。
サブカルじゃない人達が、サブカルカップルの恋愛を見て、どこに共感してんの? どこに憧れてるの?って思う。

現代の地味でキモめなサブカル男女の恋愛話を、めちゃくちゃ綺麗な俳優たちでやっていて、サブカル達の恋愛映画なのにもかかわらず、現代のサブカル男女の解像度が低いし、さらには、この映画を褒め称えてる人たちが全くと言っていいほどサブカルっぽくない人達ばかりっていう構造に気持ち悪さを感じてしまうんです。


あと、たぶんこれって恋愛映画ではないですよね?
恋愛対象である相手に自分と同じであること(同質性)を求めている自分探し、自己愛映画ですよね。

麦(菅田将暉)と絹(有村架純)は、いつまでも自分と似た人を探してるだけというか、自分と趣味、思考が似てる人と付き合って、同じと思ってたけどなんか違う。もっと合う人、私を分かってくれる人と付き合いたいな~。
今のパートナーはもういいやってなってるだけですよね?

たぶん、付き合った人数が多くて、期間が毎回短い人ってこういう傾向にあると思うんすよね。(自己肯定が低いが故の?)
おしゃれ感覚というか、服選んでる感じ
「わ~、この服かわいい~、買っちゃお~」⇒「あんまり好きじゃなくなったな・合わなくなったな、もういいや」って感じ。
自分と違う部分が増えてきたら、別れちゃう。で、すぐ別の人と付き合う人。
これ、、、ダサくないですか?
この人って恋愛してませんよね?
自分と似た者と付き合うのがゴールインと誤解してて、その先の思い通りにならない主体性の塊である他者への理解を度外視してますよね。
なんか相手を物として、消費活動の一環として見てる感がして、すごい気持ち悪い。

そうじゃなくて恋愛って、人間関係って、違うから面白いんじゃないの?ってのを言いたい。
「え!?何この人意味わかんない!でも面白いし、楽しい!ってなってから恋って始まりませんかね?」分かんないすけど。
確かに同じだとめちゃくちゃ嬉しいよ、でも全部が同じなわけなくない?
友達とかで考えると「なんだこいつ!?気持ちわる!!」ってなってから本番というか、「気持ち悪いなー」って思ってても他でカバーできるくらいの面白さがあれば、一度親友になった人間を切らなくないですか?

というか気持ち悪いのが人間であって、それをある程度容認しないと一緒には暮らしていけないよね。
だからそれができない人(麦と絹)はすごい自己中心的というか自分の事しか見てないなー、自分のこと好きだなーって思いますよね。
まあ、でも僕たちみんなそうなんですけども(泣)

極論ですが、援助交際だったり、浮気だったりなんでも良いんですけど、恋愛対象として見ている相手がそういうことをしていたと発覚した時に、即別れるのも自分だけしか見てなくて、相手の事を理解しようとしてないですよね?
そんなことする人だとは思ってなかった、というか理解したくないし、考えたくもないって感じで思考停止しちゃってる側面もあるのかなと。

浮気されたらそりゃあ悲しいけど、そんなことで?って言い方良くないのかもだけど、ほんと「好きなのにそんなことで別れるの?」って思う。
そこをどう受容するかが恋愛であって、そこを乗り越えるからこそアンビバレントだけど、より強固な関係が築けるんじゃないですかね?
いや、別れてもいいんだけど、はい、じゃあもうこれで終わりってわけじゃないんで、好きなら関係はある程度持ち続ける努力をするのもアリなのかなと。(わりとみんなキッパリと別れる人が多いイメージ)

上記のことが出来てないのならその人のことを理解しようとしてなくて、まだ自分の事だけしか見れてない麦(菅田将暉)、絹(有村架純)なのかもしれない。

一万字超えそうだし、何書いてるのか分かんなくなってきたからもういいや。

まあ、まとめると、この映画は全体的に十把一絡げ(じっぱひとからげ)なのが一番ウザい。
十把一絡げが、稲を10把で1束と数えることから生まれた言葉であるように、文化って、恋愛って、人って十人十色で全然違うのに、それを一緒くたにして、そして雑に扱ってるのがすごい腹立たしい。
そういう意味での花束ってことですか!!??
坂本裕二さん!
僕はあなたに「最高の離婚」で、ピンキー(藤咲彩音)と最上もがが加入したての、2013年のあの頃のでんぱ組.incを出してくれたという恩があるけども!
今後こういうことはやめていただきたい。

花束ではなく、一本の花を。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?