見出し画像

「たかが○○」と言えること

「たかが○○」と言えることはすごいことだと思う。

こう思ったきっかけは尊敬していたヨガの先生が言ったひとことだ。

先生は、私がヨガを習い始めたときに、すでに60代前半くらいの、上品で優しい物腰の女性だった。ヨガを仕事としてやっているというよりは、ヨガを生きているといった方がしっくりくるようなひと。レッスンの時間になって先生がスタジオにあらわれると、スタジオの空気が変わる。先生は、仏様のような(笑)優しい笑みを口元に浮かべて、口調はいつもやわらか、それにとても丁寧に言葉を選んで話していて、先生のまわりにいると、時間の流れがいつもよりゆっくりになった気さえする。

先生は旧ソ連の出身で、若いころにはピアニストとして訓練を受けたこと、若い時にアメリカへ移住してきたこと以外は、ヨガのトレーニングや経歴も含めて、あまり自身のことは話さない人だった。私はそんな先生のミステリアスな雰囲気に興味津々だったものの、なかなか話しかけることができず、先生がどうやってヨガを勉強したとか、どんな先生について、どんなトレーニングを受け、どれくらいの経験があり、どんな資格をもっているかなど、聞ける機会はなかった。けれど、先生が長い年月ヨガに取り組み、ヨガの人生を生き、また勉強し続けているのは明らかだった。

そんな印象を私に与えていた先生が、ある日のレッスンの途中で、こう言ったのだ。

「たかがヨガですよ」

「ヨガをするのは、それによって心身を整えることで、あなたたちが人生におけるもっと大事なことに取り組むことが出来るようにするためなの」

ヨガは、先生にとって人生そのものなのだろうと勝手に思い込んでいた私は、先生の口から出てきたことばに面食らった。

たしか先生がこう言ったのは、生徒のなかで、熱心にヨガのレッスンに通っているみたいだったけれど、初心者で、まだ不慣れで体の固そうな中年男性が、あるポーズをなかなか取れずに、悪戦苦闘している様子をみて言ったことばだったと思う。たかがヨガなんだから、そんなに躍起になってポーズをとる必要はないですよ、と。

なるほど。ヨガをやると、大抵の人はポーズをとることに気を取られるし、いわゆる中級者、上級者と言われる人たちは、逆立ちして頭で全体重を支えるヘッドスタンドやら、カエル倒立の変形みたいな、両手だけで全体重を支えるとんでもない体勢のポーズをとれることを「上達した」と考える人も多いだろう。

私も一時、ヨガインストラクターの資格でも取ってみようかと真剣に考えたことがあるけれど、そのときに真っ先に頭によぎったのは、「どれだけ上級者向けのポーズができるようになるか」という心配だ。「できないポーズがあるのにインストラクターなんてできない」そんな心配ばかりが頭をよぎった。だけれど、ポーズをとることはヨガの目的ではないんだ。

私の勝手な思い込みだけど、ヨガに人生を捧げているかのように思っていた先生が言った「たかがヨガ」は、なんだかとてもかっこよかった。

何かを極められる人はとてもすごいし、尊敬する。けれど私は、何かを極めたひとがそれを「たかが○○」と言えてしまうことが、なんでかわからないけどもっと尊いことだと思ってしまう。

私は何かを極められるタイプの人間ではないし(笑)、どこかで一点突き抜けて、なにかを極められる人が羨ましい時もある。だけれど、一転集中に対する恐怖みたいなものもあり、何に対してもあまり執着せずに分散させておきたいタイプ。だから趣味も1つにのめり込むスタイルではなくて、いくつかあることでバランスよく楽しんでいる。

「たかが○○」と言える状態にあることは、精神面の健康においてもけっこう大事だと思う。どんなことに対しても「たかが○○」と言えることは、自分を窮地に追い込まない。どんなに自分の全エネルギーを注いでやっていること、やってきたことでも、「たかが○○」と言った瞬間、それが自分のすべてではないことを思い出させてくれる。

何かを突き詰めてやってみることは素晴らしい経験だ。だけれど、いつだって「たかが○○」というスタンスがあることを忘れずにいたい。そして、健康に楽しく過ごしていきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?