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曽野綾子『自分の顔、相手の顔』

頼まれたら断れない、

という神経も私には昔からなかった。


これはあるべき感覚が

欠損しているのかもしれないが、

私はどんな相手でも筋が通らなければ断れる。


悪く思われても仕方がない、

と初めから思っているのだ。

断る力があればいいように振り回されないですんだのに。

教育の中で

断る力を教えてほしいと思っている。



断ることも選択肢にあるということが

必要なことが

とても多く日常にあるからだ。


NOということが言えることは

自分の事を大切にしているということなのだ。


だから曽野綾子さんに惹かれるのかな。


親しき中にも礼儀あり、

というのは、友達同士の関係をいっているのだろうと

昔は思っていたが、

今では

夫婦、親子の間でも必要なことなのだ、

と思うようになった。

いちばん大切にしなければならないのは

夫婦、親子だから。


でなければ

夫婦は

元の他人となってしまうのだ。

誰でもない自分の評判というものは気になるものだ。

しかし評判ほど、根拠のないものはない。

根拠のない評判など

気にする必要はないのだ。


ささやかな人間関係の信頼関係に応えない人生は、

基本的なところで

すばらしくもないし、

ドラマティックでもないのである。

ささやかな信頼関係を大切にできない人が

どうして

それ以上の信頼関係を築くことなど出来るだろうか。


私たちはすべてのことから学べる。

悪からも善からも、

実からも虚からも

恐らく学べる。

実からも虚からも

私たちは

学ぶことができる。


すべてのことから学べるのであれば

すべてのことに意味がある。


人は皆、自分の持ち場と特技で働くことだ。

自分の働きだけが本物で、

他人の仕事はたいしたことはない、

と思うことほど

嫌らしいものはない。

自分のことだけしか見えなくなると

自分のことしか愛せなくなる。


自分のことしか愛せなくなると

人からの愛もなくなる。

一人の人を傷つけるくらいの強さがないと、

一人の人の心も救えない。

生きていくには

覚悟が必要なのだ。

その覚悟はあるだろうか。


平和の実現は、

多くの場合、

人と同調することではなく、

抵抗することから生まれる。

抵抗することで人は違うことを学ぶ。

学ぶことが多くなることが

平和につながる。


運命や絶望を見据えないと、

希望というものの

本質も輝きも

分からないのである。

負の部分を知らないで

正の部分の意味は理解することはできない。


柔らかく受け入れて、

自分は変わらない、

ということは

実は至難な技であるらしい。

自分の軸がしっかりとしているのなら

自分との違いを

受け入れることはできるし

なおかつ

自分自身は影響されて変わることもない。


もう人生の持ち時間も長くないのだし、

健康に問題が生じても当然の年だし、

義理で無理をすることはない年なのである。

無理はしない方がいいのだ。

無理は決して美徳なんかじゃない。


美徳というものに隠されて

無理を強いられてきたことから

自分を解放する。


若い時には、

人間は一生の間にどんな大きな仕事でもできるように考えていた。

しかし今では、

人間が一生にできることは、

本当に小さいことだということがわかってしまった。

小さいことしかできないと分かっている人しか

大きなことはできないということだろう。


健康管理は蓄積だ。

それは宝くじを狙うよりも

毎日毎日豚の貯金箱に小銭を入れる人の方が

お金を貯めるのと同じで、

毎日、

暴飲暴食せず、

バランスのいい食事を

何十年とし続けて

手に入れるより仕方がないのであろう。

楽して健康になるということはできないのだ。

毎日の積み重ねが

それ自体が

楽にできるようになった時

人は健康に生きることができる。





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