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V・E・フランクル『それでも人生にイエスと言う』宿命論と悲観主義と理想主義の挫折

宿命論の浸透
しかも、さっき言ったように、生きる意味がないということは時代が宣伝したことだったのです。
これはどういうことでしょうか。
私たちが今日生きている実感からすると、生きる意味を信じる余地はほとんどないように思われます。
私たちは典型的な戦後の時代を生きています。
すこしジャーナリスティックな言い方になりますが、「心の中が爆撃を受けた」といえば、今日の人々の気分、心境は、もっと的確に特徴づけられるのです。
それにしても、戦後の時代に生きていると同時に、またしても戦前の時代に生きているような気持ちに誰もがなっているのでなかったなら、何もまだそれほどひどくはなかったでしょう。

原子爆弾の発明は、世界規模の破局の恐怖をはぐくんでいますし、一種の世界滅亡の気分が二十世紀の終わりを占領しています。

そうした世界滅亡の気分は、すでに歴史の中でおなじみの部分です。
それは、最初の十世紀の始めと終わりにありました。
また、前世紀の世紀末の雰囲気もよく知られています。
世紀末の雰囲気だけが敗北主義だったのではありません。

こうした世界滅亡の気分はすべて、その根底に宿命論があります。

宿命論とは、世の中の出来事はすべて、あらかじめそうなるように定められていて、人間の努力ではそれを変更できないとする考え方です。(ウィキペディアより)

ユダヤ人だからという理由で殺されるということは、その時代が作り上げたものであったということです。

やっと戦争が終わったと思ったら、今度は原子爆弾の登場により、いつでも世界が終わる可能性が出てきたことで戦争状態の気分が終わらないということです。

このような重苦しい気分は、いつでも世の中を支配していたというのです。

宿命論という自分達ではどうにもならないという諦めが世の中を支配するということです。

今日の悲観主義
しかしながら、そのような宿命論に支配されていては、精神の復興にとりかかることはできません。
私たちはまず最初に宿命論を克服しなければなりません。しかしこの場合、一つのことを考慮にいれなければならないでしょう。
それは、こんにちではもはや、安易な楽観主義に立って、最近の時代に出てきた問題を簡単に無視することはできないということです。
私たちは、悲観主義になったのです。私たちは、もはや進歩そのものを信じていません。
人類の発展が、自動的に達成されるなどど信じていません。

宿命論ではなく、どうにか自分たちが運命を変えることができるという考え方をすることが必要となります。

世の中をなすがままにすることで、

何とか良い方向になっていくという安易な楽観主義ではなく、

放っておくととんでもないことになるかもしれないという悲観主義の観点を持ちながら、

社会の復興を進めていくことが必要だというのです。

主体的に社会の復興に参加することが必要だということです。

・・・
こんにち、私たちは、人間がどんなことをしでかすかを知っています。

人間が主体性を見失った時、

何が善であるかが理解できなくなった時、

自分の身を守ることに精一杯となった時、

人間は、

あらゆる非道なことを

冷静に理由付けをしてしでかす、

ということは真実なのです。

そして

誰にでもそうなる可能性はあるのです。

・・・
・・・こんにちでは、行動を起こすどんな動機であれ、ひたすらに信じて身をまかせることが出来るような進歩というようなものがないことから知るところから生まれるからです。
こんにち、私たちが手をこまねいていてはならないとするならそれはまさに、
何が進歩するのかということ、
どれだけ進歩するのかということが、
わたしたちのひとりひとりにかかっているからなのです。

その際、私たちが意識しているのは、
そもそも、ひとりひとりの内面の進歩しかないということです。

これに対して、一般の進歩はせいぜいのところ、技術の進歩にしかないということです。

今後も科学技術が発展していく中で、倫理的な問題を重要視できるかどうかが重要な事項となります。

倫理なき科学は人類の維持と繁栄には繋がらないからです。

倫理的問題をようやく考えていくことができる時代となりました。

・・・
私たちは、悲観主義にもとづいてしか、行動を起こすことが出来ません。懐疑的な態度をとってはじめて、何かしようと手をのばすことが出来るのです。
・・・
理想主義の挫折
こうした懐疑にも揺り動かされないためには、生きる意味があるという信念がびくともしないものでなければならないでしょう。
このような懐疑と悲観主義をも引き受けて担うには、私たちは、人間として生きている意味と価値を、絶対的に信じていなければならないでしょう。

しかし、そのためには、やはり、理想主義や熱情に訴えるしかないのに、現代は、あらゆる熱情が乱用された挙句、ありとあらゆる理想主義が打ち砕かれた時代なのです。

じっさい、ほんとうなら、若い世代にもっと理想主義と熱情を求めなければならないのに、こんにちの世代、こんにちの青年には、もはやどのような理想像もないのです。

熱情をもって信じてきたものが崩れ去った時には、多くの熱情を持ち信じて行動してきたものにとっては精神が崩壊することになります。

ナチスの時代の若い世代は、ほんとうの理想像を持つことができませんでした。
いまではもはや、当時若い世代が抱いていた理想像を抱くわけにはいきません。
その際、ある意味で不公正な事実があることを隠しきれません。
よりによって、一番よく犯罪者の汚名を着せられる人々のなかに、道を見失った理想主義者が必ずといっていいほどしばしば見出されるのです。

逆に彼らよりもっと用心深く、後になってから彼らに反対する列に加わる人々は、日和見主義者だったのです。

両方の側に対して身を守ろうとした人々、そればかりか無節操なあまり、同じ思想をもっている人たちと一緒にやって行くことができなかったような人々は問題外ですが。
そして、今ぬくぬくとしていられるのは、まさにそういう人々なのです。

純粋に熱情をもって戦争の時代を生き抜いてきた若者たちが、戦後は犯罪者として裁かれるという不公正なことが起きるというのです。

戦争においては、敗戦国が戦勝国によって裁かれます。

どちらも多くの人を犠牲にしてきたという点においては、同じであるというのに。

また戦時中に多くの功績と呼ばれる行為を残したものが犯罪者として裁かれ、無関心を装い自分の身を守ることに専心してきた日和見主義者は戦中も戦後もぬくぬくと生き延びていくということです。

あまりに多くの根本変動を、そのとき、たった一世代が見とどけなければなりませんでした。
この世代は、あまりに多くの外的な、そしてその結果として内的な崩壊を体験しなければなりませんでした。
それは、一世代が体験するにはあまりにも大きすぎるものだったでしょう。ですから、この世代にはもう、そう簡単に理想主義や熱情をあてにしてはならないでしょう。

何かに熱情を持つこと自体には罪はないと言えます。

しかし、その熱情が他の視点を持つことができない状況に陥った際には、疑いを持つことが必要となります。


私たちは熱情だけではなく

冷静な視点と

多角的な視点を持ち

多くのデータを取りあげて示していくことで

世の中を動かしていくという

多くの人が諦めずに生活していくことができる社会を

構築していくことが重要だと思います。

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