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サマセット・モーム『サミング・アップ』天才とは

私の考えでは、
天才というのは、
生来の抜群の想像力に加えて
独自の目で世界を最大限しっかりと見る能力を
合わせ持たなければならない。

その見方には普遍性があって、
特定のタイプの人だけでなく
万人に受け入れられるものでなければならない。

天才の独自の世界は
一般人と同じでありながら、
より大きく、力強いものである。

彼が人々に伝えるものは
万人に向けられたものであり、
人々はそれが何か正確には理解できないけれど、
重要なものであると感じることは出来る。

天才は極めて正常である。

幸せな生まれつきによって、
無限の多様性のある人生を
極めて元気溌剌に、
やる気満々に捉え、
しかも
一般大衆と同じ健全な目線で
見ることができるのだ。

マシュー・アーノルドの句を用いれば、
着実に人生を見、
しかも全体的に見るのである。

ところで、
天才というものは、
一世紀に一人か二人しか現れないものだ。
解剖学の教訓がここでも当てはまる。
正常なものはめったに現れないのだ。

だから、
誰かが半ダースばかりの気の利いた芝居を書いたり、
二十枚ほどのうまい絵を描いたりしたというので、
その人を天才呼ばわりするのは
ーそんなことはをする人は結構たくさんいるがー
愚劣である。

才能を持つのはたいしたことだ。
持っている人などほとんどいない。
でも才能だけでは二流までしか到達できない。

二流と聞いてがっかりする必要はない。
めったにない価値のある業績を上げた多数の人が
この中に入るのだから。

『赤と黒』のような小説だの、
ハウスマンの『シュロプシャーの若者』のような詩だの、
ワトーのいくつかの絵画だのが
二流の芸術家の手になると知れば、
二流を恥じる必要がないのが分かろう。

才能だけでは一番高い頂上までは達し得ないけれど、
そこまでの途中で、
予想外の楽しい景色とか、
人の通わぬ谷間とか、
泡立つ小川とか、
ロマンティックな洞窟とかを見せてくれる。

人間性というのは、
ひねくれているので、
人間性の全体を可能な限り眺めるように言われると、
時にはたじろぐことがある。

トルストイの『戦争と平和』があまりの見事なために
しり込みし、
ヴォルテールの『カンディード』を手にして
ほっとする。

システィーナ礼拝堂のミケランジェロの天井画を
いつも見ながら日常生活を送るのは
大変だろうが、

コンスタブルの
ソールズベリー大聖堂を描いた絵の一枚を見ながら暮らすのなら
誰にだって可能というわけだ。

世の中で天才と認められるには

万人が天才であると認識できるレベルでなければならない。

その人の世界観が多くの人からは理解不能なほど独創的であると

天才であるとは認められなくなる。

程よい距離感が重要ということだ。

大衆が理解できそうなぎりぎりのところにいるということだ。

そして

天才は極めて正常であるという。

私たちが暮らしている世の中の一人ひとりが各自独特であり

実際には正常とは言えないという状態であるという。

真実だと思う。


その中で一世紀に一人か二人現れるという

元気溌剌、やる気満々という偏りのない正常な人が

天才というのだ。

才能を生まれ持つ人。


しかし、

才能だけでは

頂上にまでは

到達することはできないという。


そこまでに到達する過程においての景色を

十分に味わうことができるかどうか

つまり、

才能に磨きをかける過程に

意味を見出すことができるか

そして

努力を続けていくことができるかどうかが

重要なのだという。

・・・

また

あまりにも理想的で完璧に見えるものには

たじろぎ

落ち着かないという。


何か人間の中の完全ではないという闇を書いているものを読むことや

日常のほのぼのとした風景を目にする方が

暮らしやすいというのだ。


ということは

天才と呼ばれている人の創造物よりも

人間臭さや

不完全さや

温かさ

を感じるものに私たちは

こころが惹かれるというのだ。


天才の創造物だけにではなく。


こう考えていくと

本当に

不思議なものだ

人間は。




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