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V・E・フランクル『それでも人生にイエスと言う』(義務はよろこび)

ふつう、貸し方には、すべての悲しみと痛みがおかれます。
借り方には、これまで恵まれなかったすべての幸せがおかれます。
けれども、この決算は根本から間違っています。

よくいわれることですが、人間は「楽しみのために生きているのではない」からです。
そして、このことは、存在と当為(そうあるべき)のどちらの意味でもほんとうなのです。
つまり人間は、じっさいの楽しみのために生きているのではないし、また、楽しみのために生きてはならないのです。
そのことが自分で実感できない人は、ロシアのある実験心理学者の書物を手にするといいでしょう。
その心理学者は、以前、普通の人が、日常生活のなかで、快感よりずっとたくさんの不快感を体験することを実証しました。
というわけで、はじめから楽しみのために生きることは全く不可能だといえましょう。
しかしまた、楽しみのために生きる必要もありません。楽しみのために生きることは、そもそも割に合わないことなのです。

どうなのでしょうか。

よくは理解ができないところです。


生きている時代が違うということもありますが

何をもって生きていることの楽しみとするかは

人それぞれと言えます。


同じようなことにおいて

ある人にとっては苦しみでしかないことが

別のある人にとっては楽しみとなることもあるからです。

主観的な相違があると言えます。

なので、

「人間は楽しみのために生きているのではない」というのではなく、

人間はやはり楽しむために生きていると思います。

どんなことにおいても

苦しみがあるように

どんなことにおいても

楽しみを見つけることもできるからです。

・・・

この「人間は楽しみのために生きているのではない」の章の最後には、

タゴールの詩が書いてあります。

私は眠り夢を見る、
生きることがよろこびだったらと。
私は目覚め気づく、
生きることが義務だと。
私は働くーすると、ごらん、
義務はよろこびだった。

働くことを義務だとすると

苦しみとなり

働くことが義務からでも

それによる成果や、自分自身の自信や誇りに繋がる時には

働くことは喜びとなり

そして幸せとなると思います。

・・・

他の章の最後に

タルムードの創始者のひとりであるヒレルの格言が書かれています。

もし私がそれをしなければ、だれがするだろうか。
しかし、もし私が自分のためにだけそれをするなら、
私は何であろうか。
そして、もし私がいましなければ、いつするのだろうか。

あることが必要だという時

それを私がしなければ誰がそれを理解してくれるだろうか。

勇気をもってしなければならない時がある。

けれども

それを自分自身のだけのためにするというのなら

私という存在は一体何のためにあるのだろうか。


自分のためにだけではなく

次に繋げていくため

みんなの将来のために

勇気を出してするのです。


そして

必要であるその機会を見過さないで

やりきることが重要なのです。


どうにもならないような時

この言葉が支えとなりました。

勇気を出して行動に移しました。

すると

多くの人が支えてくれ助けられました。


誠実に頑張っている時には

みんなが助けてくれるのです。

有難いことです。

感謝しています。

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