1フィルター、されど1フィルター。
最近いろいろと考えていることの一つがタイトルの話で。結局ライブ感に勝る感覚値を人類は作ることが出来ないんじゃないかすら想う。
いくら最高に精緻な文才で体験したことを語ったとしても、あなたが見た光景以上の体験をダイレクトに他者に伝えられるのかと問われると、即決出来るぐらい「No」になるに決まっている。
そう同じ絵を見ているに違いなくても、現場で見る光景と何かどんなに薄くても1フィルター入った世界では、恐ろしく変わってしまうのだ。それはどんな体験だったとしても、みんな似たような感覚を体験しているに違いない。
あの1フィルターをどう飛び越えていくのか、それはずっと課題なんだと思う。けっきょくやっぱりVRでも何でも容易にあの1フィルターの壁を乗り越えることは難しい。全体で受ける感覚に勝る何かを人工的に作り出すことが難しい。仮に代用出来るものがあるにしても、それはかなりの確率でやっぱり代用でしかない。
ある意味でそれは相模ゴムのコンドームの追求に似ているのかも知れない。でも単純に薄いだけでもない。裸眼とメガネの関係性にも似ている。見えているものは一緒なのに、世界が違うような感覚をやはり持ってしまう。
そのわりに錯視なども起きるわけで、精巧なのか鈍感なのか分からない不思議ささえある。敏感と鈍感のちょうど塩梅の良いものが、きっと人間が人間たる所以なんだろうけど、結局「百聞は一見に如かず」って言葉が端的にそれを現してしまっている感もある。
自分が体験したことや感じたことを、そのまま他者に伝える経験は絶対にずっと成立しないジレンマを抱えているような気がする。それでも何かを発信したがるのが人間だし。ともすると伝わらないことを伝わると信じて発信し続けるのかも知れないと思うと虚しくもある。
だから結局あなたや僕が良いと思ったことなどを押し付けるのは良くないに決まっている。なぜならあなたが思った以上にそれは伝わらないからだ。より抽象的なことになればなるほど、それは伝わらない。直接会っても伝わらないものが、1フィルター通すとどうだろうか、全く伝わらないかも知れない。だから根本的にいまこの状況で人類は本当に試されている気がする。
もしかしたら辛うじて伝わっていたかも知れないことが、伝わらないかも知れないのだ。やっぱりそれぞれ自分が経験しているもの以上の感覚で、誰かのそれを受け取ることが出来ない。そうするとそれは得てして矮小化した何かで受け取られてしまう可能性もはらんでいる。でもそれは本当にいつもはらんでいる危険。それが本当にいつも以上にいま1フィルターのあいだで試されている。
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