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考え方は立体的に考察するには

いきなり訳の分からない入り方ですみません。ずっと命題的に考えていることがこれなんです。ある意味多角的にどう判断するか。みたいなところにも通じる話なんですが。

文章は完全に平面に帰結しているので、そこで立体的に考察するってことは、結局考え方に奥行きを持たせるにはどう考えるかみたいなところにつながってくるわけです。

ある種の正義論というのは、一定方向しか向いていないベクトルと表現するならば、世界中のある種の正義感は無数の方向に向いたベクトルだと考えることが出来る。だから少なくとも縦横高さのベクトルを持つことができれば、少なくとも一定方向だけではないものを取得出来るということが出来ます。

ある一定方向の意見に対して、真逆の話が反対側から出てくる。そこに対してもうひとつ客観的な第三者のベクトルがあれば、そこに奥行きを捉えることが出来る。たとえ信頼している人の話でも場合によっては信用することが出来ない。なぜならば前提条件となるものがそもそも設定段階から歪められているならば、それはそもそも言うに値しない情報になってしまうからで。

そういう意味では設定条件を正確に補足出来なければ、そもそもそのベクトル情報は全くの意味のないデブリ的な情報となるわけです。正しい正しくないという判断ではなく、意味する意味しないって文脈がここでは大事です。

正しいとか間違っているという判断は、その人の置かれていた境遇や環境そして何かしら学んで来たころから現出する生理現象であって、それが正しいのか正しくないのかは、実は厳密に誰も判断出来ないと思われます。だからそれは意味があるのか、単なる意味のない記号なのかぐらいで判断することがベターなんではないかという気がします。

別の軸で考えるものとしては、実際に経験することと、本や別の代用で取得する知識があります。でもこれは結局実際に経験することに勝る感覚を得るものはない。もちろん知識として吸収されるものの中には非常に知的興奮を有するものもあるわけです。でも映像もやっぱりライブ感には究極的には勝てない。共鳴する感覚値もやっぱり出力が劣るように感じるわけです。

だからそれも結局、究極的なところでどう立体的に考察するかってことになるんじゃないかと考えていて。リアルに感じるともまた違うんですよね。自分の中でどう立体的に組み上げたものとして咀嚼するのか。なんか最近ずっとこの解釈をぐるぐると考えているわけです。

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