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大人になったんだから、なんだってできる。確かにそうだけど、ね。

話題のツイートを見て考えたこと

今、Twitterで話題になっているツイートとその反響を見て、改めて私が当たり前と思っていることは、世間の当たり前じゃないんだなと実感したので、考えを書きます。

このツイートをした方に言及する気はあまりないのだけど。

虐待は、経験と価値観を奪う

私は大学の頃、ちょうどこのツイートに近いテーマで論文を書いていた。
「虐待がその後の子どもの将来に与える影響について」

この論文を書いたとき、動機として
虐待は終わったら「はい、おわり」「あとは頑張ってね〜」ってされがち!!という風潮に対する違和感、怒りみたいなものがあった。

今も福祉の仕事をしていて、忘れてはいけない視点だと思っている。

今回、この件で見失われていること。
それは、虐待は子どもの人権を尊重しない行為であるのと同時に、
経験と価値観を奪う行為
だという考えかただと思う。

子どもは吸収する天才だから

確かに、事実として
大人になればなんでもできる。

それは子どもたちにも、虐待や不適切な養育を受けて育った人全てに伝えたい。
過去で全ては決まらないから。

だけど、はたから見ている人、当事者ではない人が
それを言うのは危険だと感じる。

なぜなら、実際に失われるものがあるから。
上で書いたように、虐待は経験と概念を奪う行為だと思う。

子どもはどんどん経験して、どんどん吸収する天才だ。
スポンジのように吸収する子どもたちは、吸収するものを選ぶことはできない。
子どもたちの持つ、将来や大人のイメージは家族、先生、せいぜい半径5メートルくらいの大人を見て作られる。

それに、人は14歳のときに聞いた音楽を大人になってからも聞くという研究結果もある。

少し古いデータだけど、気になった方はどうぞ。


子どもの福祉に関わる仕事をしているけど、虐待のある家庭から保護されて離れる子はごくわずかな存在だ。14歳で家を出る方法は、保護されるか、親族などに預けられるか、寮などのある学校に行くくらいだ。どれも、かなり条件が揃わないと実現しにくい。
そうなるとほとんどの人は、14歳を自分の生まれた家庭で過ごすことになるだろう。

子どもたちは近くにいる大人から多くのものを吸収する。相手は選べないことがほとんど。そして、大人になってからも、14歳のときの好みを持ち続ける。

生まれたときから生活保護を受給して育って子どもが、「将来の夢は?」と聞かれて、なんと答えるだろうか。
その子の世界には、働いている大人が何人いるんだろうか。
世の中にあるたくさんの働きかたをどうやって知るんだろうか。

「経験」思い至らないから行動できない

経験とは、
「Aという行動をしたら、Bになる」を理論上ではなく実体験で知っていること。

例えば、自分の力でお金を稼いだら、どんな喜びがあるのか。
自分自身にお金をかけると、どんな喜びがあるのか。
自分の体調が悪いとき、どうやって労わると心地よいのか。

現代は、知ろうと思えばほとんどの情報を得られる社会。
そんな現代でも、情報弱者と呼ばれる人が存在したり、ネットの活用状況に格差があるのはなぜか。
私は、まず「それを検索しようと思い至らない」ことも理由のひとつだと思う。
経験がないから、思い至らない。
虐待はそんな経験を奪う。

「価値観」知ってても選べない

価値観とは、
Cなとき、Dすると自分は心地いいと実体験で知っていること。

例えば、
自分が疲れたとき、どうやって行動するのか。
優しくされたとき、どうやって受け取るのか。
人とのコミュニケーションをどんな目的を果たすためにとるのか。

もしも、情報があったとしても、人はそれを取捨選択して生きている。
取捨選択の末に作られるのが価値観。
大人になった今、子ども時代の影響を受けている価値観など一つもないという大人はいないだろう。

そのどちらも奪われたとき、果たして大人になれば全部できると簡単に言えるだろうか。

途方もない「取り戻すステップ」を経て

奪われたところからスタートして、「大人になればなんでもできる」にたどり着くには、ステップがある。
今回の件で、ここをすっ飛ばされたように感じた人も多いんじゃないかと思う。

それは、取り戻すステップだ。
これは、自分の中にないもの、与えられないものを取り込む作業だ。
場合によっては、本来取り込みたいものと真逆のものを植え付けられている場合だってある。
その場合、植え付けられたものを一旦抜いてから、入れることになる。
正直、途方もない作業だし、ゴールもない。

病院に行った経験と、価値観がなかった私

ここまで抽象的な話をしてきたので、具体例を出そう。
私自身も経験と価値観を大人になってから一生懸命取り戻しているので、私の話。

私は、虐待というよりは不適切養育に当たる家庭で育った。

失っていた経験の一つが、医療にかかること

いつからか分からないが母は病院に行かない人だった。
母が、病院に行っていた最後の記憶は小学校低学年の頃。
夫婦喧嘩に夢中になった両親が、真夏の車内で寝ていた弟を忘れた。
見つけた人が通報してくれて、弟が熱中症で救急搬送された。
そういうどうしようもない場合以外、病院に行かない人だった。
家族全員分の保険証をハサミで切って捨てるところを目撃したこともある。

体調を崩すと、「もっと悪くしないと、悪いものが出ない」と特殊な砂糖粒を飲まされた。
その砂糖粒を飲むとよけいに悪化するので、嫌いだった。
砂糖粒を飲んだ後は母に責められる。
「白い砂糖を食べたから」「臭いの使うから(リンスやヘアスプレーのこと)」と過去の行いが悪かったと責められる。
その後一週間は言われ続けた。

こうして、いつの間にか、母に体調不良を言わなくなった。

中学生や高校生になると、白い砂糖を全く食べないことは難しい。
学校帰りに31アイスクリームに寄ったり、自販機でジュースを買ったり、その全てに白い砂糖が含まれているから、責められた。
コンビニで全てのゴミを捨てて、母に見つからないように帰宅していた(コンビニには本当に申し訳ない)。
リンスを使わないというのも、ヘアアレンジの好きな私には受け入れ難いことだった。
言う通りにしない選択をした私だったけど、どこかで体調不良は自分の行いが悪いからと植え付けられていたのだと思う。

そうして大人になった私は、一人暮らしを始めてからも病院に行かなかった。
市販の薬を買う発想もなかった。
10年以上単身赴任の父に頼んで、新しい保険証はもらえた。
それでも、保険証を使えば、母にバレるから行かなかった。

就職し、自分の保険証になってからも、変わらず病院に行かなかった。
正直病院に行く発想がなかったし、何科に行って何を言えばどうなるのか分からなかった。

私はもう大人だった。
保険証だってあったし、ネットで検索すれば「症状が続く場合は病院に行きましょう」と書いてある。病院に行くお金だってあった。
それでも、病院に行った経験がなく、体調不良は自分の行いが悪いせいだと考えていたから、一度も病院には行かなかった。

結局私が病院に行くようになったのは、夫と一緒に住むようになってから。
「なんで行かないの?」「行けばどうにかなるかもしれないよ」と夫に勧められた。夫が初めて、「体調不良なんて自分のせいだけじゃないよ」と言ってくれた。「病気になった人にもそうやって言うの?」と言われて、初めて持ち続けてきた価値観が揺らいだ。

病院に行く前。
なんて言えばいいの?何科にいけばいい?どのレベルで行けばいい?
検索しまくって、不安になったら夫に聞いて、シュミレーションをして、初めてちゃんと病院に行った。

それまでずっと、耐えていた。
ひどい生理痛も、自分の行いのせいだと思って耐え続けた。
首が動かなくなって、整体に行ったら湿布を使わない人は初めてだと言われた。
28歳で初めて、「アトピーですね。今まで言われたことなかったですか?」と診断され、不思議がられた。

病院に行ったことで、ひどい生理痛から解放された。一ヶ月のうち三週間をPMS(月経前症候群)や貧血に左右される日々が終わった。
ずっと痒みに耐えてきたアトピーもかなり改善した。服を着ても見える場所にできる湿疹で人に会いたくないと思うほどだったのが、今ではたまにかゆいくらい。
薬局に売っている市販薬も少しずつ買うようになった。

一ヶ月のうち三週間は体調が悪いから、気持ちも沈んで自分に掛けてきたひどい言葉は一生消えない。
顔に湿疹ができて、会いたかったけど会わなかった友達はもうどうしているかも分からない。
毎日思い出すわけじゃないし、今楽しいことだってある。
別に過去にこだわって今を生きてないわけじゃない。
だけど、消えない悲しさがあるのは事実。
誰になんと言われようと、その人の悲しみはその人のものだ。

大人だから、全部できたはずなのに。

取り戻すステップは、ものすごく手探りだ。
失っているのは目には見えないもの。些細なものかもしれない。

体調を崩したとき、友達も、同僚も、上司も、心配してくれる。
「お大事にね」と言ってくれる。周りの人に恵まれてきた。
だけど、実際にどの程度で病院に行くかなんて、ほとんど共有しないだろう。
だからこそ、取り戻しにくい。
そんな失ったものに囲まれて生きていくんだよ。

冒頭でも言ったけれど。
これからを生きていこうとする人には、声を大にして言いたい。
「大人になったらなんだってできるよ」。
だから希望を持って生きられるし、生きて欲しいと願う。
どんなに取り戻すステップがあったとしても、そうして取り戻した先にはきっと自分の心地よさにつながる経験と価値観を持って生きる未来があるから。

同時に、その取り戻すステップがあることを知っていて欲しいと思う。
これは虐待に限った話じゃない。
ブラック企業で「お前が悪い」「根性がない」「気合いが足りないからだ」と洗脳された場合も、植え付けられたものを抜いて取り戻すステップが必要になるかもしれない。
結婚相手がモラハラで、「全部お前が悪い」と言われ続けた人もきっと取り戻していく。
つい最近、我が子を殺害して、ママ友に洗脳されたと供述している事件もあった。そうして我が子を殺すまで洗脳された人は、これからそれを抜いて取り戻して生きていくしかないんだろう。

取り戻すステップを、決して「“そういう家庭で育った人“だけのものでしょ」と切り捨てないで欲しい。
どんな人だって、経験や価値観を奪われることはある。
そして、どんな人だって取り戻していける。
道のりは決して楽じゃないけど、誰だってそう。

誰だってそうなんだって、みんなお互いに思えるような想像力を持っていたい。
同時に想像力を持てない背景にも、なにかあるのだろうとも思っていたい。

話題のツイートを見ながら、考えたことでした。

おわり

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