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小学校受験の入試の意図について数年経ってから考えてみた

小学校受験渦中の話はこちらから。

娘の小学校受験から大分時間が経過した事により、以前よりも客観的に小学校受験について考えられるようになってきた。渦中にいた時はどうしても自分や子供の立場でしか物事を考えられず、なぜここまでして家庭を追い込むのか(怒)と小学校受験業界に対して憎しみの気持ちしか持ち合わせていなかった。ただ、時を経て冷静になっていくと共に、最高学年になった娘の同級生達の様子を見ると・・・なるほど学校の入学試験には意味があったのかもしれない、と朧げながらも学校側の事情を想像できる事がある。

正直、親としては、当時も今も受験業界への否定的な気持ちに変わりはない。しかし6年も経てば熱さも喉元を過ぎ、自分の事情は一旦置いておき学校視点から物事を想像できるようにはなった。正直どれもこれも身も蓋もない意見であるが、最高学年になった我が子のクラスメートと照らし合わせると妙に腑に落ちる事もある。

ちなみに私は学校関係者ではなく、私立小学校に通う単なる保護者Aである。私なりに見て感じてきた事がベースであり、学校側の見解ではないのでご留意いただきたい。


願書の意味とは

小学校受験をするにあたって「いよいよ」と感じるのはまず願書であろう。私が想像する限り、願書ではただただ、家庭の事を知りたいのであろう。この一点のみである。生まれて5、6年目の子供について(願書で)知りたい事は事務的な事のみであり、それよりも親に語彙力、表現力、受験経験の有無が(そしてもしかしたら繋がりも)あるか、そして私立に関しては6年間学費をちゃんと払い続けてくれそうかどうかも見られているのであろう。次項目でも触れるが、勉学のサポートを家庭に期待できるかどうかは、学校にとって重要である。また、上に兄弟姉妹がいればその入学先も(同じ学校でなくても)加点要素として見られていると思う。

学校によって願書の様式は様々だが、親にとって厄介なのが自由記述欄である。これが長ければ長いほど教養が求められるし、誤魔化しが効かなくなってくる。

また、往々にして願書の記入・提出方法には細かいルールがたくさんある。「ふりがなはカタカナで」「都道府県は省いて市区町村以降を記入」「○月○日必着」など、情報を丁寧に読み取り、ミスなく提出するにも思った以上に注意力と下調べが必要である。

私立小学校は入学後も学校からの情報伝達は多く、中にはある程度読解力が必要とされるものもある。また長期休みの際には親子二人三脚と言わんばかりの宿題量が科され、内容も予想外に煩雑だったりするためやはり情報処理能力が必要となる。決して親切とは言えない数々の文章を見ると、願書の細かい指定にもチェックの意味があったのかもしれない、と今ならば思える。なので、願書はついつい「別にいいっしょ!伝わるっしょ!」のスタンスで開き直りたくなる事もあるが、お勧めはしない。最後まで気をつけた方が吉である。なんなら日を跨いでチェックする余裕を持っておけるとベストだ。

ペーパー試験の意味とは

当時、最大の敵であり最大の謎でもあったのがペーパー試験であった。たかが5、6歳の子供を長時間机に向かわせるその状況を作り出す小学校受験が心底憎かった。正直、親としては今でも未就園児の子供には時間の浪費だと思っているが、学校からして見れば、ペーパーを通してわかる事は案外多いのかもしれない、と今であれば思う。

ペーパーの意味その1:「容量の良い子」がある程度発掘できる

身も蓋もない事実である。だが残念ながら、ペーパーが得意な子は、入学後も継続して勉強の吸収率が良いように感じる。現在、クラスメートの右を見ても左を見ても秀才だらけである。なるほどあの憎きペーパーでわかる事もあったのだな、、、と妙に納得している自分がいる。1を説明して10わかる子なのかは案外5、6歳でもわかるものなのかもしれない。

ただ、ペーパーに関しては好き嫌いも多分に左右する。頭の回転が早くてペーパーが好きな子は発掘されやすいが、ペーパーが嫌い、という子はそれだけで発掘されにくいので、ペーパー苦手=頭の回転が遅いという訳ではないようだ。むしろ入学後、親同士で話していて「我が子はペーパーを最後まで大好きだったわ!」なんて子、聞いた事がない(最初は好きだった子は多い)。大丈夫だ、みんな嫌いだ(?)。

ペーパーの意味その2:家庭のサポートがあるかどうかがわかる

机に座って前を向いて40分ほど授業を受けられるか、、、という事はまず大前提ではあるが、自宅に帰ってからも机に向かう事ができるか、という点は高学年になればなるほど、成績に大いに響いてくる。また、その習慣が出来るかは、本人のやる気・・・だけで成り立てばそれが一番なのだが、ほとんどの家庭に関しては家庭でいかにサポートするかにかかっているだろう

小学校受験はどうしても親主導となる。親が子供のペーパーをサポートする事に意欲的であれば、入学後、子供の勉学をサポートし続けてくれる可能性は高いように思える。つまり、入学前にペーパーに真剣に取り組んだ家庭ほど、入学後も成績維持をしてくれる可能性が高い。(個人的にこの考えは家庭の学力と労力に依存しているので、カリキュラムとしては好きではないが、あくまで学校視点から考えると成績は担保してくれる家庭の方が好ましいと考えられる)

考査の意味とは

続いて考査についてだが、考査を通じて子供や家庭についてわかる事は言うまでもなく多い。特に、子供の素を引き出すことができればもう取り繕う事もできないだろう。

考査の意味その1:問題のある生徒をはじく

最もわかりやすいのが、ネガティブチェックの意味である。一般的な子供らしさから考えても、指示から大きく逸脱してしまうような子は、安定した授業を行うにあたって弊害になる可能性が高い。子供らしさは大切だが、学校としてはそれ以上にいざという時には必ず話を聞ける子が来てほしいのであろう。要は切り替えができるかどうか、という所だろう。

考査の意味その2:試行錯誤をできる生徒を発掘する

課題に対する完成度は確かに一つの指標にはなりそうだが、それよりも未曾有の問題に直面した時にいかに試行錯誤できるか、という所が最も見られているように思う。
しかし、このありがちな視点が親としては最も厄介である。なぜならこの「自分から解決しにいく力」は自分に自信がないと発揮されないにも関わらず、小学校受験は状況的に子供にプレッシャーがかかりやすく、子供がむしろ萎縮しやすい環境を作る。つまり小学校受験をしながらも、子供の自信を育てられているか、一方的な子育てをしていないか、という点が親には求められるのだが、これが本当に難しい。

考査の意味その3:気品のある生徒を発掘する

いきなり貴族のような事を言い出して申し訳ないが、他に言いようが見つからない。ここで言う気品とは、何も「常に澄まし顔でいる」という事ではない。難しい場面で公平であろうとする行いだったり、複雑な場面で見せる気遣いであったり、本人にとって「当たり前」として染み付いている芯の部分に好感が持てる事だ

これは6年前は思いもしなかった事なのだが、、、気品のある子はテンションが上がれば上がるほど、素敵さが際立つ。お腹を抱えて笑っていたり、全力で走り回っているような場面でこそ、咄嗟の行動に「おっ」と惹かれるものがある。ただし、あくまで素が露呈している時、という所がポイントなので鍛える事は難しい。日常が滲み出る瞬間なのだ。

素の状態でも気品が感じられるという事は、おそらく親の立ち振る舞いが自然と子供に伝わっている結果であろう。これは残念ながら小学校受験対策だけでは身につかないのでコントロールできる要素ではないが、学校としては是非見つけたい要素だと推測できる。子供達にとって楽しいお題を出している所が多いのも、そういう事であろう。正直、親が生まれた時から見本を見せる以外に対策できる事はない気がしているので、対策が非常に難しい。

ただし、合格者全員にこういった資質が見られるかというと残念ながらそうではない。実査には滅多にいないが、もし持ち合わせていたら目を惹く存在であることは間違いない、という事だ。入学後、こういった子にしばしば合うが一瞬で圧倒される存在である。

その他:日本を大切にする心が必要なのかもしれない

時が経つにつれ感じる事があるのだが、、、小学校入試のペーパー、考査、面接、全体を通して、日本の文化を大切にしているか、という点が重要なのかもしれない。小学校受験では、世界基準での効率や教育効果だけを中心に考えると不可思議な事が多いが、今後も日本の文化を守っていくつもりがあるか、という視点で考えると腑に落ちる内容が多い。季節を大切にし、行事を大切にし、和の文化を大切にし、協調性を重んじつつ、集中力があり、礼儀正しくて努力と根性を蔑ろにせず、できればその上でリーダーシップがあれば、学校としてはパーフェクトなのかもしれない。

まとめ

冒頭でも述べたが、6年経った今でも子供の成長を第一に考えれば小学校受験は決して子供にとって良い影響を与えるとは思っていない。一方で、学校からすれば堅実な家庭を、そしてできれば優秀な子を発掘しなければならない。親からすれば納得できない試験内容も、学校にとっては必要なのかもしれない。今となってはその気持ちも分からなくはないし、優秀なクラスメート達の現在を見ていると、必ずしもその試験方法も的外れではなかったように思える。

今回挙げた点は、たとえ知った所で対策できないような事項も含まれるが、総じて小学校受験では子ども以上に家庭が何よりも重要視されている、と言えるだろう。我が家は子供にばかりプレッシャーを与えてしまい後に非常に後悔したが、プレッシャーを与えた所で学校の見ている所はさして鍛えられないのだとすると、結局のところ、子供ではなく自らの振る舞いを正し、美しく生活する、と言うことが近道なのかもしれない。

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