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ずたずたにされたソファ

前の家に住んでいた時に使っていた2人がけのソファ。わたしはそのソファがずっと嫌いだった。

まずは座り心地。
長く使っているせいかやたら沈むので、腰が痛くなる。長時間座ることができない。ソファのカバーもゴムが伸び切って、なにかの拍子にすぐズレる。

カバーがズレるたびに、むっとする。
もういっそのこと外してやろう!と、薄汚れたごわごわしたカバーを取ると、そこには鶯色のソファが現れた。

合皮が剥がれてところどころからスポンジが顔を覗かせる。ここまで古いなら腰が沈むのも仕方ないと納得した。

その時点でずいぶん痛んでいたのに、子猫を飼い始めてからの劣化スピードはおそろしく速かった。

カバーを取ってしまったため、中のスポンジはぼろぼろと床にこぼれ落ちるばかり。
見た目も最悪だ。でもどうせ引っ越すし、その時に買い替えればいいかと開き直った。

開き直ったとたん、わが家のソファがだんだんと大きなゴミのように見えてきた。
狭いリビングの真ん中にはどデカいゴミが堂々と佇んでいる。処分したい気持ちは増すばかり。

引っ越したら絶対捨てようね、と言うと「これは俺が実家で10年以上使ってたんだから。そんな言い方しないでよ」と夫は悲しそうな顔を見せた。
しかし、そんなことは知ったこっちゃない。

夫の悲しそうな顔を見ても、わたしのソファに対する気持ちは変わらない。知るもんか。
日々こぼれ落ちるスポンジを掃除するのもうんざり。大事な腰を痛めてくれるソファなんかさっさと捨ててやる!

あれよあれよと言う間に、引っ越しの日は近づいてきた。

家の不用品たちは友達や親のもとへ旅立った。しかし、誰からも貰われなかった古いもの達もたくさんある。

塗装が禿げたレンジ台や、今にも倒壊しそうなテレビ台、そしてあの忌々しいソファ。

親戚に軽トラックを借りて、不用品を市内のゴミ処理場へ捨てに行くことにした。

「よっし、これでやっと捨てられる」

わたしは心のなかでガッツポーズをした。ゴミ処理場に到着すると、入り口の係のおばさんに免許証を見せて、粗大ゴミのエリアへ進んだ。

「オーライオーライ」と声がして、作業着のおじさん達に誘導される。彼らは茶ばんだタオルを首にかけていて、機敏な動きでゴミを分別していた。

バックで駐車をすると、おじさんがソファを軽トラの荷台から乱暴に引きずり落とした。どんっ!と、鈍い音が響く。

その瞬間ちょっとだけ胸が痛んだ。わが家では(というか、わたしから)あんなに忌み嫌われていたソファだったのに、他人にここまでぞんざいに扱われるとすこし悲しい気持ちになる。

おじさんはわたしの気持ちを知る由もなく、尻のポケットからカッターを取り出すと、ものすごい速さでソファを切り裂いていった。腕を大きくふるってその姿はまるで鎌鼬のよう。

(やめて!)
思わず心の中で叫んでしまった。しかしおじさんの手は止まらない。

ものの10秒でソファは跡形もなくなり、無惨な姿に変わり果てていた。他のゴミ達はただ荷台から降ろされただけだったのに、ソファだけあんな形で処分されるなんて。

「はい、オッケーでーす」

「ありがとうございました。」

ぼうっとした頭のまま、わたしはゴミ処理場を後にした。

あんなに早く捨てたかったのに、手放すと急に寂しさが込みあげてくる。
あの家で過ごした3年半は、まるで幻だったんじゃないかと思うほどあっけない別れだった。

(あんなにあっけなく処分されてしまうなら、直してでも使えばよかったかな)写真を見返すたびに後悔が押し寄せ、じわじわと涙が目に溜まる。

ソファに対しての大きな喪失感がしばらく癒えることはなく、ショックで3日ほど寝込んでしまった。

自分は物を捨てることに抵抗がない人間だと思っていた。

友人が断捨離で苦しんだという話を聞いても、「なんで?所詮物なんだし、また買えばいいじゃん」と血も涙もない正論で返していた。

このやり場のない悲しみは、いらなくなった物をゴミ袋に容赦なくぶち込んできたバチかもしれない。

しかし寂しいと思う一方で、「自分にも物に愛着が湧く真人間の部分があってよかった」と安堵した。

壊れても直せるところは、自分で直して、これからは後悔しないように大切に使ってゆきたい。

あんな変わり果てた姿はもう二度と見たくないのだ。

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