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東京旅行と青天井

 だから結論はこうだ。
「ほとんど全ての人間には、無限に似通った人間が無限人存在する」

『Self-Reference ENGINE』円城塔


 僕は関西で生まれ関西で育った。だから当然、関西弁を話し、阪神タイガースを応援し、文末には「知らんけど」を付け、お腹が空いたらマクドに向かう。

 そして当然、東京に対してうっすらとした苦手意識を抱いている。

 いったい東京の何がそんなに気に食わないのだと問われると、一瞬言葉に窮する。咄嗟に何も言えないのだから、確固たる考えや論理的な分析結果が自分の中に存在しているわけではない。「人に個性がない」「いろんなものを寄せ集めただけの都市」「人が多すぎてうんざりする」などのよくある理由を、ただなんとなく鵜吞みにしているに過ぎない。だから最近は、東京という都市の姿を実際に確認する必要があるな、と考えるようになっていた。

 そこで、内定先の都合で呼び出されたのをよい機会として、東京をぐるっと観光して回ることにした。もちろん東京23区には多種多様な人やモノや建築物があって、とても数日間ですべてを見ることはできないが、それぞれの街の雰囲気ぐらいはそれなりに掴めた気がしている。以下、写真を中心に旅行の内容をざっくりと記録していく。


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・東京駅

赤レンガの駅舎。どこが正面なのかよくわからない。
ワッ…ワァッ…!!(人が多すぎる、という意味)


・インターメディアテク

東京大学のコレクションを中心に展示する無料のミュージアム。
近世ヨーロッパの「驚異の部屋(ヴンダーカンマー)」をモチーフにしたと思われる内装が、おしゃれで楽しい。
「ガラス越しにモノを鑑賞する時代は、万国博覧会の開催を機に始まったと言われる。」という記述を読んで、自分が今までガラスケースの存在に一切注意を払ってこなかったことに気付かされた。自分の中で透明化されている物事に改めて目を向ける機会を得られるのが、こういった施設のよいところだ。


・お台場(散策)

「俺はガンダムで行く」
フジテレビ本社。デス・スターが埋め込まれている?
レインボーブリッジは、今日も封鎖できそうにない。


・日本科学未来館

科学に興味のない人でも楽しめるよう、体験型の展示が多い。ファミリー向けの施設という印象だが、成人男性一人でもそれなりには満足できる。特に「難しい内容をどのように嚙み砕いて伝えているか」という点に着目して回ると、様々な工夫が感じられて非常に面白い。
スケールの大きい展示が多く、子どもの興味を引きそう。こういった施設の存在は、個々人にとっても国家全体の未来にとっても、計り知れない意義があるように思う。
たまたま『刀剣乱舞』とコラボしていて、お姉様方で賑わっていた。観覧する時間がなかったのが残念だ。
「日本」のこと?


・渋谷(散策)

忠誠心の変わらないただ一匹の犬ころ。
スクランブル交差点は、時間帯のせいかそれほどスクランブルしていなかった。


・明治神宮

大鳥居。木造の鳥居としては日本一の大きさらしい。
本殿。暑すぎたため、ササっとお参りして逃げるように帰ってしまったのが心残り。


・原宿(散策)

竹下通り。僕の生活には馴染みのないパステルカラーが氾濫していて、世界の広さを感じる。


・歌舞伎町(散策)

なんというか、「こんな街が存在していいのかよ」という気持ちになる場所だった。褒めてはいない。
インターネットのクソ広告をかき集めたような街が続いている。あるいはそれは順序が逆で、全てのインターネットのクソ広告はここに端を発するのかもしれない。


・秋葉原(散策)

ここにしかないような広告がたくさんある。誰かがツイッターで「秋葉原は広告それ自体が観光資源化しているのがすごい」と言っていて、まさにその通りだと思った。
描かれたキャラが全員荷台に詰め込まれて輸送されているのだとしたら、すごいだろうな。


・アメリカ横丁(散策)

とりあえず寄ってみたが、正直あまり印象に残らなかった。ファッションに対する興味が希薄すぎる僕が悪いのかもしれないし、案外大した場所ではないのかもしれない。
初めてルノアールを見ることができたのがいちばん嬉しかった。「マルチ商法の勧誘、ルノアールでやりがち」という東京あるあるが存在するらしいが、その真偽はまだ確認できていない。


・上野恩賜公園

緑豊かな場所で目に優しい。噴水などの水景施設がすべて工事中で見られなかったのが残念。
千円札の重荷から解放され、心なしか生き生きしているように見える。
世間に蔓延るクズを冷たくしてバラバラに売り捌く施設。
そういえば「ポケふた」なんてものもあったなと、見つけてから思い出した。今回の旅行ではこの1枚だけしか見ていない。
東京国立博物館は、時間が足りず断念した。流石に首都なだけあり、文化施設の数がとにかく多い。


・国立科学博物館

くじらのオブジェが目立つ。外国人観光客も多く訪れているようだった。
お土産として売られていた。なんというか、うーん、トイレっぽい。
この博物館は科学未来館とは打って変わって、知識の原液が大量に襲い掛かってくるのが楽しいが疲れる。どうしたって全部覚えているわけにはいかないが、少しでも身になっていることを願いたい。
そうは言ってもキッズ大歓喜のエリアもあり、全体として非常におもしろかった。

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 以上。お楽しみいただけたなら幸いである。

 この数日間の滞在で最も印象的だったのは、あまりにも多い人の数だ。一人の人間が記憶しておける他人の数の上限値がいくつなのか知らないが、東京ではその人数の数千倍、数万倍の人間が、それぞれ勝手気ままに生活しているようだ。その天文学的な数の多さは、個人の感覚からしてみるとほとんど無限のようにも感じられる。さしあたり、「人が多すぎてうんざりする」のは間違いなさそうだ。

 もう一つ印象に残ったこととして、街ごとの雰囲気の違いを挙げたい。東京23区という比較的コンパクトなエリアの中に、様々に異なる空気感の街が一緒くたに詰め込まれているのは、東京の特筆すべき点だと感じる。そして、それぞれの街の中では、同じようなファッション、同じような顔つきの人がたくさん見受けられる。街によって人間性が決められているようにも感じられ、少しだけ不気味だった。その点を踏まえると、外から見ている立場から「寄せ集め」「個性がない」という言説が生まれるのも、まあわからなくはない。

 しかし、と僕は思う。東京に住む人はみな、一つのエリアに縛り付けられているわけではない。霞が関で働きながら休日は秋葉原で過ごす人もいれば、原宿のクレープと上野の美術館を同時に愛好する人もいるだろう。大きな類型のステレオタイプに囚われず、個々人の暮らしに着目してみると、個性豊かな人間が暮らす血の通った場所としての東京が想像できる気がする。

 思うに、東京とは、住人に無限の選択肢を提示するシステムだ。それを共同体として見ようとするから、冷たく、退屈で、無個性なものに感じられるのだろう。そうではなくて、無限に近い人間に無限に近い選択肢を与える、その割り算をイメージする。そうやって生まれる一人ひとりの集合体として東京を捉えることで、少しずつ苦手意識は薄れていくのではないだろうか。

 東京というシステムが本当にうまく機能しているのか、僕は知らない。「この商品を買った人はこんな商品も買っています」が大抵当たっているように、人の在り方は結局いくつかのパターンに分けられて、その中で人々は商業社会に踊らされ続けるのかもしれない。あるいは、共同体というセーフティーネットが失われることで、人々は果てしなく孤独な存在になっていくのかもしれない。だから僕は、東京中心主義には待ったをかけたいし、将来住む場所として東京を第一希望にすることもない。

 しかし、東京に住む無限の人々がそれぞれ何かを求めて何かを選ぶ、その過程には最大の敬意を払いたい。そしてもし僕がそこに住むことになるのなら、僕自身も自分らしさを追求することを諦めないようにしたいと思う。その結果が大きな類型に当てはまるつまらないものだとしても、積み重ねた選択の数には何らかの価値があるはずだ。きっと。たぶん。ま、知らんけど。


 わたしは違ったものになろうと思います。あなたたちとも、誰とも。
 無限個の砂粒の中から、一本の針を拾い上げるように。その針を投げ捨て、また拾うように。今、あなたたちがそう決めたように。

『Self-Reference ENGINE』円城塔