私はわたし


#なりたい自分

私は沢山のなりたい自分があった。
まず、画家になりたかった。しかし、保育園の将来なりたい自分を絵に描く時に画家の絵が描けなくてお花屋さんの絵にしてしまった。そこから、私の小さな挫折物語が始まる。

 中学受験をして第一志望に入れて沢山の部活動と読書をした。そんな時に図書室で読んだのが林真理子 作『本を読む女』である。

そんな中で「私は何ににもならんよ」と主人公の女性が言っていたのが印象的だった。

美術部で全国学生美術展で佳作をとったり、剣道部で二段を取得したり、ダンス部で発表したり、演劇部で端役をしたりとそれなりに充実した学校生活を送った。しかし、いざ進路となるとさっぱりわからなかった。中高一貫校で中学生と高校生が同じ校舎にいたので中学一年の頃は美大に行きたかった。
美大に行く程には絵は上手くなく、シングルマザーの家庭でお金もなかったので文系の大学に奨学金で行った。それも、隣の教会でちゃっかりクリスチャン推薦を受ける為に受洗して結構楽して大学に入った。

が、それも1ヶ月で行かなくなってしまう。
そして私はキャバクラ嬢になった。クラブでも働いた。3ヶ月だけ、ホストの売掛金の為に風俗嬢にもなった。歌舞伎町で若すぎる私は堕ちたもんだと悔しかったが、日々食べるためには客の体を舐めなければならなかった。漫画喫茶で、ぼんやりと社会科の先生になりたいなあと、まだ大学に籍のあった私は思った。
実際には社会の窓の先生をしていたわけだけど。

今でいえばトー横キッズだった。

そんな私は母親に精神病院に入院させられ、大学は辞めさせられてしまった。成人してからはずっと精神障害者となってしまった。

20代は良く働きもしたが、良く遊んだ。他宗教の彼氏も作って別れた。

そして演劇部で端役しか出来なかった悔しさから劇団員になった。やっぱり端役だった。
嘘のつけない私に演技は向いてなかった。
座長さんから芝居は限りなく本当に近い嘘だと言われたのだ。

病気が再発してまた入院した。
また、画家になりたい夢が湧いてきた。
病棟でめちゃめちゃな絵を描いた。

勝手に家に帰って父が病院に連絡してくれてそのまま退院になった。

それからは簡単なアルバイトを時々して22歳から貰っている障害基礎年金で寝たり呑んだりする日々。

一応、画家になる為に専門学校の体験入学で油絵も描いてみた。飲み屋で似顔絵が売れた事もある。

しかし、何をどんなに頑張っても何をどんなに頑張らなくても私の名前と存在はあるという事を知った。

どんな資格をとってもどんな賞状を貰っても、誰々のファンでもトランプの大富豪で大富豪になっても、元気で笑顔の自分が1番だ。

強いていうなら健康になりたい。
規則正しい生活を送り、noteに投稿したい。

私はわたしなのだ。

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