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涙のわけをわかってくれる人は、なかなかおらず

私を泣かしたければ、卒業式の映像を流すとよい。

保育園から始まり、小・中・高とかかさず卒業式で泣いてきた。高校は附属校で、友人のほとんどが同じ大学に進学するのにもかかわらず、だ。

ちなみに、大学と大学院(修士)では、ギリギリ泣かなかった。が、やはりうるっとはきていた。

こんなことを言うと、「寂しがりやなんだね」とか「学校が大好きだったんだね」なんて言われるけれど、この涙はそういうことじゃないのである。
実際、自分の卒業式でなくとも、泣く。他人の卒業式の映像でも泣くし、なんなら「卒業式」の看板を見ただけで、うるっとくるのだ。


お別れ、さようなら、最後。

そういった状況に、めっぽう弱い。

寂しいけれど、名残惜しいけれど、さようなら。
新たな旅立ちに向けて、各々、歩き出す。

そんな状況下で、誰かが思っているかもしれない悲しみや、うちに秘めているかもしれない新しい道への決意、最後だからと泣き笑いするその笑顔。
そんなものを(勝手に)想像して、ほろほろ涙を流してしまうのである。

そんなところに、しんみりとしたBGMや卒業式で定番の歌なんかが流れてきたら、もう我慢できない。ポロッポロ、涙が流れてしまう。

もうひとつ、涙を流してしまうものがある。

それは、お店の閉店。
「閉店セール」や「閉店のお知らせ」を見ただけでは大丈夫だが、そこで閉店を惜しむ客や店員さんがいたら、もうだめだ。全く自分が行ったことないお店でも、目がうるうるし始めてしまう。

特に、テレビなどで流れる、老舗百貨店の閉店の映像。あれはだめだ。

扉の向こうで、店員さんたち一同、頭を下げている。
マスコミのカメラがシャッターを切る中、シャッターが下りていく。
「ありがとう!」「お疲れさま!」の声がかけられるなか、店員さんたちは頭を下げ続け、シャッターが降りきる。

……だめだ、書いていたら視界が霞んできた。

卒業式に関して抱いた、「最後の悲しみと、新たな門出」にまつわる感情とともに、各従業員さんのお店への思いが浮かび、きゅうと胸が痛み、涙が出てきてしまう。

本当は閉店などしたくなかったのだろう、思い入れのたくさんお店だったのだろう、無念だったろう……

そんなことを(やはり勝手に)思って、ボロボロに泣いてしまう。自分でも引くくらい、泣くのを止められない。
実家にいた時には、横で同じテレビを見る母親が、ドン引きし苦笑いしていた。

大好きな洋服屋さんが閉店してしまうことは、以前に書いた

あのときには書かなかったが、もうお察しのことかと思う。
あの日、やっぱり大号泣していた。服を選ぶときからうるうるし始め、お会計の際にブランドごとなくなると知って、涙をこらえるのが本当に大変だった。(もちろん、お気に入りブランドをなくす悲しさもあいまってだ)

お会計後、化粧室に駆け込み、トイレの個室で声を殺して泣き、喫茶店であたたかいココアを飲んで気持ちを落ち着け、研究室へと向かった。

落ち着けたはずの気持ちは、研究室に戻り恋人の顔を見た瞬間、涙となってぶりかえしてきた。

ポロポロこぼれ落ちる涙を止めることができない。

恋人はびっくりして、おろおろと「ごめんよ、俺が悪かった、ごめんよ」と謝り始めた。
実はこの前日の夜、些細な喧嘩をしていたのである。彼は自分のせいで私が泣いているのだと思い、慌てていた。

「ち、ちがくて」こぼれ落ち続ける涙を拭って、途切れ途切れ伝える。
「パターンフィオナが、閉店しちゃうの」

「俺じゃないんかい!」
盛大につっこんでみせた彼は、安堵した表情をうかべ、「あほやなあほんと」と笑っていた。私はその横で、わあわあ泣いていた。

自分でもなんであんなに悲しく切なくなるのか、わからない。
もういい年の大人なはずなので、いい加減なおしたいと思う。が、なんでだろう。涙はとまらない。

今日、これからあのお気に入りのお店の最後を見届けに行く。

泣かずにいたいけれど、また泣いてしまうんだろうな。せめて人前では堪えていたいぞ。


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