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謝らなくていいんだよ

zoomで開催された、修士生向けのゼミに参加した。

なつかしくなった。目の前には、ほんの少し前までの私と同じように、慌てふためく子たちがいる。

「これなに?全然わからない」「ノーテーションから説明して」
「数式はいいから言葉で説明して」「どうしてそうなるの?そこがわからない」

至極真っ当なんだけど、厳しくきつく聞こえる先生のツッコミ。

「すみません」「ごめんなさい」

ついつい、何度も出てしまう、謝罪の言葉。

なつかしい。私もツッコまれては、「すみません」と「ごめんなさい」を繰り返していた。

厳しいとも思わないくらいには、先生方からのこうしたツッコミには慣れた。
指摘に対して「ごめんなさい」を言う必要はなく、言うのであれば「ありがとうございます」だと知った。

ここに至るまでに、まず理解したのは、”理解した上で説明する”ということだっただろうか。

「どうしてこうなるのか」分野外の人でも分かるように、記す。
「これがこうなってこうなって、こうなる」を論理立てて、理解して、説明する。仮に論文や記事に書いていなかったとしても、そこは考えなきゃいけない。わかったふりで流そうとする姿勢は、見抜かれる。

時間はかなりかかった気がするけれど、様々な先生方からのツッコミを受けて、”理解した上で説明する”ことを学んでいった気がする。

いまでも、初歩的なことをスコンをすっ飛ばすことは、ある。それを指摘されて、「ああ、理解不足だ」と痛感することも多々ある。

でも、謝りはしない。
とっさの「ごめんなさい」が出ちゃう時はあるけれど、連発はしない(はず)。

対等なのだ。先生と学生は。少なくとも発表の際は、”研究者”として同じ土俵に立っているはずなのだ。

先生は、「わからない」ということを馬鹿にはしないし、怒りもしない。それで落胆などもしない。怒るとしたら、「わからないのに、わかったふりをして考えようとしない」姿勢かな。

「こんなこともわからなくて、ごめんなさい」
「理解不足で、ごめんなさい」
「準備が足りていなくて、ごめんなさい」

そんなものは、いいのだ。誰もそんな謝罪なんて、気にしてないし、求めてもいない。
先生方は、あくまで物事に対する指摘をしているだけで、”学生そのもの”を否定しているわけじゃない。単に疑問をなげかけて、感想をくれているだけだ。

そうしてその指摘を受けて「わからない」と気づけたんだから、これからわかるようになればいい。それだけなんだ。

先生は、こうやって、厳しい口調だったりもするかもしれないけれど、「わからない」ことを気づかせてくれる。新しい視点をくれる。物事を理解したり、自分の研究を進める上で有益なコメントをくれる。

だから、ごめんなさいじゃなくて、「指摘して、気づかせてくれて、ありがとう」。
「ご指摘ありがとうございます」は、決して、偉そうなんかじゃない。

そう先輩方からも教わってきたし、この姿勢で偉そうだなどと怒られたことなんて一度もない。

「ってメールして教えてあげた方がいいかなあ」

と、同じゼミの先輩でもある恋人に尋ねてみる。

「まだ早いかな?」私の問いかけに、彼は暖かく笑ってうなずいた。

「まだ初回だし、もうしばらく待ってからじゃないかな。いまは厳しいコメント受けて、どうしたらツッコまれないかなって自分で試行錯誤するので、いいんじゃないかな」

「そうだねえ。それも大事だね」

「うん、暖かく見守っていよう」

ちょっともどかしくもあるけれど。
頑張れ、修士生。私もまだまだひよっこだから、頑張るよ。


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