頭でっかちのアレ
理論ばかりを詰め込んで実力が伴わない人,或いは理論を実践に生かすことができない人が頭でっかちだと呼ばれると考えている.
そして私は多分頭でっかちだと言われやすい,そう思われやすい方だったと思う.今はどうかは知らないが以前は特にその傾向があったように思える.
そこで,私は頭でっかちが本当に悪いのかについて考えていきたい.
初めに結論を書くと頭でっかちはいい状態ではない.クオリティの低い知性,或いは心身の運用状態であると考えている.
ただ一方で,私は頭でっかちと言われるぐらいの理論の探究によって頭でっかちを克服してきたとも自負している.
悪いのは理論の探究そのものではない.頭でっかちと言われたならばなぜ頭でっかちが悪いのか,どう悪いのか,どう改善できるのかまで探究してもいいのではないかと考えている.
その時に良くないのは,調べる上で思い詰めて考えることである,気軽に,見つかったらいいなと,世界の運命の波に導かれるような気持ちで淡々と必要なことをやっていく,その時その時で必要な知識を得ていくことが肝要であると考えている.
思いつめて調べ続ける状態は多分だが「頭でっかち」に近い.「頭でっかち」性が強いとも言い換えられる.
ただ,たとえ質が低くともその探究の過程も頭でっかちの克服に少しづつ役立っていくかもなとも思っている.
そして,最もいけないのが思考の停止である.
頭でっかちを戒める人の主張は頭ばかりでなく身体を動かせ,行動して身体そのもので探究しろと言うことだと思う.
実際私はその通りだと思う.
自己啓発本ばかり読んで意識だけ無駄に高くなり,浮ついてふわふわしているだけでは,本質的に優れた能力は発揮しにくいし実社会に対する貢献度は低くなってしまうということもあると思っている.
ただ,身体を動かせということは完全に思考を止めろと言う話ではない.その点が勘違いしやすい部分であり,難しい点であると考える.
行動している最中にうじうじと思考するよりは,止めてしまって「今」に集中した方がいい.そう言う時もある.一方で理論の探究を完全にやめなければならないかと言うとそうではないだろう.ようは使いわけである.
「頭でっかち」と言われる人にはおそらくそれが難しいのだが.
問題点を指摘した時には克服法も指摘してあげるのが親切だ.だが,他人にそこまでする義理もないだろう.だから,「頭でっかち」と言う言葉を思考停止で丸呑みにするのではなく,何が問題でどう対処できるのかは自分で考えていく必要がある.
その点が重要なのである.
私は自分が「頭でっかち」だと自覚し,その状態が問題だと発言している指導者を見ていた時に,理論を追いすぎるのをやめようとしばらく思っていた.そして実際にそうしていた.ある面ではこれは正しい.
ただやっぱり結局最後は理論の徹底探究によって自分の道はひらけた.
正しい心身や脳の運用方法がわからないのであれば学べばいいのである.
私は特に学ばなければ一般に常識と言われるようなこと,誰もが無意識のうちで達成できるようなことが認識できないらしい.「宿命年中殺」という.四柱推命とかでの理論だがとにかくそういう特質を持った人間のようだ.
なので学ばなければならない.普通の人が黙って歩いている道の横で人が歩く原理を知り,うまく歩く方法,歩きの効用などを一度勉強してから歩き始める必要がある.
私の手でこの世界の本質を隙なく把握することは難しい.1つ目の理論だけでは歩くには足りず,目的地に辿り着けないで迷うこともあるだろう.そのときは歩きながら2,3,4の理論を探し獲得していくのだ.
そうして歩くことができる.人と違う点は,歩く原理などを探求しようと思う人が少ないと言う点だ.そのため,真に本質に近い構造を理解できたならば人よりも高度な「歩き」を達成できる可能性があるとも考えている.
それが,誰もつまづかないところで引っかかってしまう人間の「得」であり,才能であると考えている.
話が少しそれたが,この話の要点は1つ目の理論だけでは目的地に辿り着けない可能性があると言うことだ.理論を獲得しても実践で真に役に立てられていない.人からすると「頭でっかち」と言われるような状態に入ってくる.
だがそこで黙って固まって思考停止をしてはいけない.思考を一度やめて身体で何度も歩いてみて歩きを自然獲得する方法もある.ただその才覚がないなら立ち止まって,或いは歩みを緩めて勉強するべきだ.
いつでも歩いていればいいわけじゃない.
その点が「頭でっかち」と評された人間に降りかかる複雑な罠のようなもの,いやそれだと大袈裟だろうか.まあとにかく引っかかりやすい点だと考えている.
実際思考をやめた方がいいときだってある.しかし上手い思考のやめ方もわからないのだ.だから勉強する.
人間には色々な特質がある.人と違った特質を持っていると難しいことも多いかもしれない.人から変だとみられるかもしれない.
それでも自分に合った道をいく必要がある.そういうものだと思っている.
私は理論によって「頭でっかち」を克服してきた.
それと同時に,理論によってこの世は表面的な理論・理屈だけでは動かない部分があると言うことも理解しきた.
もちろん,それらを理解するにあたって行動,身体的な探求が強烈に伴っていたことは言うまでもない.
頭だけではだめなのだ.ただ時によっては頭をなくしてもだめだと思う.
頭でっかちにびびる必要はない.静かに,淡々と探究していけばいい.
そして行動するときは勇気と愛を持って.行動できればいいかな.まあそこはあまり深く考えないようにしておく.頭でっかちになってしまってはいけない.
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