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『ボクは坊さん。』読了!~2020年お盆休み最終日~

お盆休みに一気に読み抜けた。
全編通して「おぉ!」とか「なるほど~」とか「わかる!」と気づきや刺激をいただいたけれど、終盤に登場する考え方にすごく感銘を受けた。

それは、著者が繰り返し考えているという「生きること、死ぬということ」について。

「死ぬ」ということはどういうことなのか、そこから見えてくるはずの「生きる」ということは。

その問いに対してある時、彼の胸に飛び込み、馴染んだ「気づき」のようなものが、私の胸にもスッと飛び込んできた。それは、

「全部、〝こころ〟なのかもしれない」
つまり僕たちのもつ欲求や、目的、そういうすべてを突き動かすなにかが、「どんな心が欲しいのか?」というひとつの問いかけに集約できると思ったのだ。たとえば「お金が欲しいな」と感じた時、僕たちはなにを求めているのだろうか?それは、「お金を持っている、ということを感じているわたしの〝こころ〟」を欲しがっているのではないだろうか。
「いや、全然ちがう。私はヴィトンの大きいバッグという〝物〟が欲しいから、お金が欲しいの。心はじゃないよ」とあなたは言うかもしれないけれど、それも「ヴィトンの大きなバッグがもたらしてくれる、私のこころ」が欲しいはずなのだ。僕は同じような問答を電車の中で一時間ぐらい繰り返してみたのだけれど、欲しいのはいつも〝こころ〟だけだった。「なんだか体を動かしたいな」という時も「体を動かしたときの充足感や快感という〝こころ〟」が欲しいと思うし、「あなたが好きなんです」という思いでさえも「あなたといる時、あなたを考えた時に、私の感じる、私の〝こころ〟が好きなんです」ということだ。あまりロマンチックな話ではないけれど。
逆に「嫌だな」という時でも、「嫌だと感じる〝こころ〟をもつことがイヤ」なのだ。なんだか、僕はそんなふうに考えることが、たまらなくおもしろく感じ始めていた。「歯医者に行きたくない」と思うのは「痛いと感じる私の〝こころ〟をもつこと」を嫌がっているわけだし、「あなた、行かないで!」というのも、行ってしまった後に感じる自分のこころをもつことが嫌なのだ。
「だから、なんだっていうんだよ!」と怒られてしまいそうだけれど、これは僕にとってはすごく興味深い話だった。
僕たちは「生きる」という人生の中でいろいろなものをもったり、経験したりできると思っているけれど、「僕たちは〝こころ〟しか、もつことができない。そして、その心を味わうだけが生きるということ」、そんなふうに言うことはできないだろうか。個人的には、言えると思った。
そして生きるということは、そんなにもシンプルなことなのだろうか。ただここに、こころがあることが、僕たちが生きるということなんて。


問答にしてしまうとこじつけ感も出てきてしまうが(笑)、私にはこのことは至極もっともな気がするし、密生さん同様すごく興味深く感じた。

欲しい〝物〟、たとえば欲しい洋服があったとして、それを手に入れるのは、その服を着てコーディネートを楽しむ〝こころ〟や、それを着て出かける時に上がるテンションを得るため。
逆に、その〝こころ〟つまり自分がどうなりたいと望んでいるかをわかっていないと、〝物〟を手に入れたところで、一瞬は満たされるかもしれないがすぐに次に欲しい物が出てきて焦ったり、人と比べて自分が持っていない現実に落胆したりしてしまうということになるのだろう。
そんな風に思い至ってすごく納得している。

そして「生きる」ということは、人それぞれに「どう生きたいか」という〝こころ〟を理解し、その〝こころ〟を味わおう=実現しようとしていくことなのかなと、私なりの解釈はそんな感じだ。
「死」を迎えたら、「どう生きたいか」を求めることはもはや叶わず、つまり〝こころ〟を味わうことはおそらくできなくなってしまうから。
「どう生きたいか」=「どういう〝こころ〟を持ちたいか」。それが生きている人にとっての特権なのだ。
その特権を十分理解して活かしていかねば。それができるときっと、

「この〝こころ〟は、本当に、本当に価値があるのだな…」

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