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「友だち」論からの「自分」論。

先日読んだこちらのnoteがすごくすごく印象に残っています。

友だちになかなか会えないことのさみしさは、「自分」に会えないさみしさなのだと、ぼくは思った。
そういう友だちたちに会えないさみしさは、「その人の前でしか見せない自分」に会えないさみしさでもある。

今ちょうど、なかなか友達と会う約束をしづらい時期であり、私もご多分に漏れずさみしさを味わっています。
そんな時だったので、タイトルに惹かれて読んだのですが、「友達」に対するこの捉え方はとても新鮮でした。


と同時に、〝目から鱗!〟という感じもありました。

ぼくにとっての友だちとは、「その人の前でしか見せない自分」がいる人、なのだ。

筆者の伝えたいことから少しずれてしまうかもしれませんが、
私には〝相手によって、見せる自分(話し方や態度)が変わる、異なることは普通のことなのかも?〟と思わされたんです。

というのも、私は相手によって話し方や態度(緊張したりしなかったりなど)が変わる自分が、猫をかぶっているというか嘘をついているようで、嫌だなと感じることがあり、ちょっとした悩みのタネだったんです。
時に、悪いことをしているような気分にさえなることもあります。

でも、この文章から〝そんなことないのかも〟という気になり、今後は人と接する時、特に慣れない相手とのコミュニケーションの際に悩むことが減りそうだなと明るい気分になりました。
今までは、コミュニケーションを終えた後に凹んだり、それを意識しすぎて手前で緊張したり、疲弊する要素が多かったのですが、それが改善されるとコミュニケーションの中身の方に意識を集中できそうです。

そしていろいろな人とのコミュニケーションの中で、相手と同時に自分のこともまた、知ることになるのでしょうね。
〝あ、この人には自分はこういう態度を取るんだ〟とか、〝こういう話し方の人だと、自分の話し方はこう変わるんだ〟とか。。。

先日読み終わった『坊さん、ぼーっとする。』に書かれていた言葉の意味の受け取りもまた一回り深くなった気がします。

自分の考えを人にぶつけて、はじめて自分のことがわかるんだ
 「他者によって知る自分」

そして、最近読み始めた村上春樹の『雑文集』で書かれていたこともつながってくる気がします。

あなたが牡蠣フライについて書くことで、そこにはあなたと牡蠣フライとの間の相関関係や距離感が、自動的に表現されることになります。それはすなわち、突き詰めていけば、あなた自身について書くことでもあります。それが僕のいわゆる「牡蠣フライ理論」です。

ここでは相対するのが人間ではなく牡蠣フライなのですが(笑)、なるほど納得の理論だと思います。

直接自分のことを見るのはなかなか難しいことだと、自分の経験を通して思います。でも実は、対象物に自分の一部を投影していることが結構あるのではないかな、とも思います。
何かに対峙した時の自分の反応や、対峙したものとの関係性を見ること。
自分を知る新たな手立てとして、覚えておきます。

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