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はっぴぃもぉる 003

 翌朝目を覚ますと、昨日の疲れがまだ残っていた。
きっと昨日見知らぬ女性に意味のわからない話をされたからだ。
流石にそれは彼女が気の毒だと思ったが、原因がそれにあることに間違いは無い。

この所しばらく、心の容量を消費するようなコミュニケーションを取っていない。
職場に通い、いつも通りの日常を過ごし、お互いに返事の分かっている会話しかしていないのだ。予測のつかない会話をするのはいつぶりだっただろうか。
きっとそのせいでどっと疲れたのだ。
心のガソリンメーターの針がグッと下がったような、そんな感覚が確かにあった。
だからといって不快かと言われれば存外そのようなことはなく、むしろ心地よささえも感じるくらいだ。
「今日は会えるかな」
 そんなことさえ思っていた。
恋ではない。単なる好奇心と、包装紙なしで他人と触れ合える快感を、心が欲していたのだ。
そんな大仰な言い回しはこの感情には似つかわしくないが、とにかくこれが色恋沙汰の端緒ではないことは強調しておく。
別に青年だってゴールデンレトリバーだって良かったのである。

そんなことを思案している間に、モーニングルーティン、と言うものをとうに終えていた。
決まり切ったことを飽きもせずに、時折微調整を加えながら継続していくことは、昔から得意な方だ。
窓の外から雨音がする。昨日の天気予報を思い出す。
せっかく予報してくれていても、受け手が忘れていては意味が無い。
慌てて傘を探し、黒のスニーカーを履く。全く同じものを三つ持っている。
完璧にローテーションを組んでいるわけではないものの、くたびれ加減は見事に一致している。
時計を見るといつもの電車が出るまで十分。
駅までは徒歩七分。
ドアを開ける。
「今日はこの雨じゃ会えそうにないな」
曇天を見上げ、何となく独りごちる。

確証はなかったのだが、やはりその日は彼女は姿を現さなかった。
例の踏切を心持ちゆっくり通過し、過ぎてから二度振り返った。
しかし誰からも話しかけられる事は無かった。
「また見かけたら」と彼女は言っていた。もうあれっきりと言う可能性もある。何事もないはずの一日も、新たな邂逅に胸が踊り、そこには今までは見えなかった色が生まれた。
もう一度言うが好意は無い。
しかし表現し難い特別な感情がそこにはあった。

左肩の痒みは消えていた。

004へ続く

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