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猪苗代湖畔に鎮座する製鉄の神々①

■津軽、出雲、加賀の製鉄集団が古代会津へ

猪苗代湖の西岸、湊(みなと)町の遺跡からは驚くほど多くの鉄滓(てっさい)(製鉄の際の鉄の不純物)が出土する。
萩生田和郎(はぎうだかずろう)氏はこれを、古代の鉄の生産地跡だと考えた(『青巌と高寺伝承』)。

同書では、それを裏付けるものとして、赤井の荒脛巾(荒鎺)(あらはばき)神社、笹山の須佐乃男(すさのお)神社、東田面(ひがしたづら)の金砂(かなすな)神社を挙げる。
それぞれ津軽、出雲、加賀を本拠とした製鉄集団で、名だたる製鉄集団が会津に来て製鉄を行ったとなれば、古代史上稀有(けう)なことであるという。

湊町の笹山には興味深い伝承がある。
仏教公伝の頃、中国(梁)から会津へ渡った僧侶「青巌」に同行した僧数人が、日橋川伝いに猪苗代湖に至り、笹山で布教していた。

高寺が滅亡すると、後に会津に入った徳一の慧日寺の門下となり、笹山に港を開くことを命じられた。
この地はやがて猪苗代湖舟運の拠点となり、現在の湊町地名の起こりになったのだという。

萩生田氏はこの伝承をもとに、笹山に移り住んだ中国僧は、宇内・青津(会津坂下町)の豪族の求めに応じ、当時の先進技術を用いて、砂鉄系の鉄から剣(つるぎ)や斧(おの)をつくる鍛冶技術を指導したのではないかと考えた。

石田昭夫氏によれば、湊町の鉄生産は1200年前の平安時代から行われていたという(講演資料『湊の製鉄』)。
「湊町に所在する遺跡の中で、古代から中世にかけての散布地では、大戸古窯跡群の須恵器とともに90%の遺跡から鉄滓が出土している」ことは、猪苗代湖周辺で平安時代から大規模な鉄生産が行われていたことを示し、製鉄は、その後近世まで継続して行われたという。

鎌倉時代(13世紀)の「赤井遺跡」には、一般集落とは違う富豪層の住居跡があり「コメに依存しないで鉄の生産に関係し、経済が豊かであった可能性がある。」というのだ。

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           湊町地区(猪苗代湖西岸)


■笹山の須佐乃男神社、赤井の荒脛巾神社

私は、2017年秋に湊町の神社3社を訪ねたことがある。
笹山の須佐乃男神社は、猪苗代湖を見下ろす丘にあった。
本殿は自体は小ぶりなつくりだが、参道入口の社名を記した石柱碑は、スサノオの性格を表すように力強い字体で刻まれている。
古い木製の鳥居には立派な扁額が掲げられ、今でも大切に祀られていることがわかる。まさに湊町の歴史を見守るように鎮座していた。

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              須佐乃男神社(湊町笹山)

そこから赤井の荒脛巾神社への道は、アスファルトが一面茶色だった。冬の融雪に使う地下水に多くの鉄分が含まれているからだろう。赤井の地名は赤い水が出る井戸に由来するというが、まさに製鉄の地に結び付く光景だった。

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        茶色いアスファルト道路(湊町赤井)


荒脛巾神社は、赤井郵便局の近くで民家が並ぶ場所にある。
参道入口には社名を記した新しい石柱碑が立ち、四の鳥居まで並んでいる。本殿は東の猪苗代湖の方角を向き、屋根は補修されているものの、扁額を含め年代を感じさせるたたずまいだった。

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             荒脛巾神社(湊町赤井)


■東田面の金砂神社

東田面の金砂神社は、カーナビも示さない場所にあった。
小高い山のすそを走り、何度も下車して探し回った末、やっとのことで細い山道の先に神社の石柱碑を見つけた。
鳥居の先の急な階段の先に本殿があった。
狛犬の後方には、水瓶を背負った亀の石造が向かい合っているのが印象的だった。
この本殿も猪苗代湖の方角を向いており、3社の中では一番高い場所に鎮座していた。

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           金砂神社(湊町東田面)


■ヤマタノオロチの姿が意味するもの

須佐乃男神社の祭神スサノオは、「イザナギとイザナミの子で、天照大神の弟。
多くの乱暴を行ったため、天照大神が怒って天の岩屋にこもり、高天原から追放された。
その後出雲に降り、ヤマタノオロチを退治し、奇稲田(くしなだ)姫を救い、大蛇の尾から得た天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)(三種の神器のひとつ、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を天照大神に献じた。」と『記紀』が伝える。

記紀と同時代(8世紀前半)に編纂された「出雲国風土記」によれば、当時の出雲では、川から採集した砂鉄から鉄を作り鉄器に加工する技術があり、農具や日用品などが生産されていたという。

スサノオが退治したヤマタノオロチの姿は、「一つの胴体に8つの頭、8つの尾を持ち、目はホオズキのように真っ赤」だった。
この意味はさまざまに解釈されるが、砂鉄を原料とした「たたら(屋外で行なわれる野だたら)」の炎を表し、奥出雲の山々で行われていた製鉄の様子だという説がある。
だとすれば、このオロチの伝説は、スサノオが鉄の一大生産地出雲を掌握したことを伝えているともいえる。

また、スサノオは出雲に降りる前に、朝鮮半島の「新羅(しらぎ)」に降りたと伝わることから、大陸や朝鮮半島の製鉄技術を伝えた帰化人(一族)だという説もある。

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    スサノオとヤマタノオロチを描いた浮世絵(楊洲周延画)
    出所:https://tetsunomichi.gr.jp/tales-about-tatara/japanese-myth/

■良質の砂鉄と木材を求めて

ところで、たたらには大量の木材を必要とする。
中世のたたら製鉄では、鉄2.5トンを得るために、砂鉄8トン、炭13トンが必要だったという。
そしてこの炭13トンを得るのに、樹齢50~60年の林、1ヘクタールを必要とした(『古代製鉄物語』浅井壮一郎著)というから、古代でも木材の調達は深刻だったはずだ。

たたら製鉄の民は、良質の砂鉄と木材を求め、商機を求めて広範囲に移動したのではないだろうか。
猪苗代湖には豊富な砂鉄があり、そして木々が豊富な山々に囲まれた地域だ。
そして新たな居住区には、祖先神であるスサノオを祀ったのだろう。
(続く)

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