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猪苗代湖畔で「古代製鉄」を想う②


大陸僧「青巌」の伝承

仏教公伝の頃に、大陸梁国から「青巌」が会津へ仏教を伝え伽藍も建てた(高寺)という伝承がある。
   ➡『高寺山で青巌を想う』

同行した僧の数人は、猪苗代湖西岸の笹山へ移り布教と同時に製鉄事業を指導したという。
しかし、高寺の滅亡後は会津に入った「徳一」の慧日字の門下に入った。笹山に港を開くことを命じられたことで猪苗代湖舟運の拠点となり、これが現在の地名「湊町」の由来になったと伝えられている。

さて、青巌はなぜ布教の場所をこの会津に決めたのだろうか。
ほかにいくらでも候補地があっただろうに。

それは、おそらくこの会津が鉄の一大生産地だと知っていたからだろう。
伽藍を建てるにしても、その道具や部材を作るには鉄は欠かせない。
同行した僧侶が、笹山へ移り製鉄事業を指導したことでもそれはわかる。

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           (徳一菩薩坐像 勝常寺)


徳一による会津仏教王国

さらに、9世紀の初頭、徳一はなぜ、布教の場所をこの会津に決めたのだろうか。
その理由のひとつは、やはり会津が鉄の一大生産地と知っていたからだ。

徳一は慧日寺をはじめとして多くの寺の創建に携わっているが、それには製鉄技術で栄えたこの地が大きな支えになっていたはずだ。
更にもう一つ、これもあくまで憶測だが、それは青巌が伝えた大陸の仏教を学ぶためだ。

最澄や空海は遣唐使となって大陸の新しい仏教を吸収してきたが、徳一はひとり奈良仏教(法相宗)を守り続けていた。
特に最澄とはその後「三一権実論争」を繰り広げるほど対立することになるが、徳一とて人間である。
両人に対する羨望の思いがなかったとは言えないだろう。

少なくとも大陸仏教を体験する機会がないことに苦悩していたはずだ。
そして、大陸から直接会津へ伝えられた仏教である高寺の評判を聞くにつれ、堕落した南都から迷わず東国へと旅立ったのだ。

ところで、この鉄の一大生産地の基盤がつくられた時期は、青巌の会津入りの前にさかのぼるはずだ。

そこで注目すべきは、赤井の「荒脛巾神社」、笹山の「須佐乃男神社」、東田面の「金砂神社」なのだ。
萩生田氏は、「それぞれ津軽、出雲、加賀を本拠内とした製鉄集団」とした。
ここでは本拠地を云々する必要はなく、日本の各地から製鉄の技術を持った集団が、猪苗代湖畔に集結したことこそが重要である。

古代製鉄の一大拠点

さて、古代における情報伝達は、現代人が想像する以上に発達していた。
それは日本列島を縦断する山の民によるもの、また河川によるヒト・モノの流れが根底にあった。

猪苗代湖から見れば、「日橋川」は会津坂下で「阿賀川」と合流しその先は新潟県の日本海へつながる。
尾瀬沼を源とする「只見川」は、喜多方で阿賀川に合流する。
会津は古くから、米沢・白河・宇都宮・新潟への峠道も発達していたから、日本各地とのアクセスにも非常に優れた地域だった。

「すずなり」のヨシが自生するという猪苗代湖の情報は、これらのルートを通じて日本列島へ拡散し、また同時にこれらのルートでヒト・モノが集まったに違いない。

猪苗代湖へたどり着いた製鉄集団の先駆者たちは、「すずなり」のヨシが密集する様を見て先ずは呆気にとられ、しばし立ち尽くしたのだろう。
そして我先にとタタラ場を作り、次第に技術情報を共有しながら一大製鉄基地が形成されていった。
もちろんその背景には、4~5世紀の前方後円墳が示すこの地の豪族の援助もあったはずだ。


古代会津仏教と鉄

さらには、「高寺」を創設した梁国の僧青巌が引き連れた技術者たちにより、製鉄技術も向上していった。
次第に「砂鉄」を原料とした製鉄が主流になったのだろうが、私は会津の古代製鉄は、猪苗代湖に自生するヨシを源として誕生し発展したのだと考える。
さらに、その発展こそが会津仏教王国成立の礎となったとさえ思えるのだ。

会津の旅三日目の朝、笹山にある会津レクリエーションセンターの一角「遺跡の広場」(縄文期の遺跡が発掘された場所)を見て、その後猪苗代湖方面へ車で移動した。

すると覚えのある風景が広がり、ほどなく「須佐乃男神社」へ着いた。
昨年9月に訪れた場所だった。
すぐ先の猪苗代湖の湖畔は入り江になっている。
青巌に同行した僧の数人が笹山で製鉄事業を指導し、その後慧日字の門下となった僧が笹山に港を開いたというが、おそらくこの辺りのことだったに違いない。
(終わり)

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        (猪苗代湖 会津若松市湊町笹山地区)

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