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高寺山で青巌を想う

会津坂下町の高寺山には伝承がある。
欽明天皇元年(540年)、中国南朝の国「梁(りょう)」から「青巌(せいがん)」という僧侶が、山に庵を結んで里の人々に仏教を説いて回った。
やがて庵は寺となり、山麓の各地に三十六坊舎を持ち多くの僧を養った、と伝えられる。
これが真実なら、我が国の仏教公伝(538年)の頃に、すでに大陸の僧が直接会津に仏教を伝えていたことになり、驚くべきことだ。
春の連休に、縁あって、会津坂下町の高寺山一帯を散策する機会に恵まれた。高寺山伝承は地元の方にも賛否両論あるが、私なりに青巌の会津入りについて考えてみた。

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会津坂下駅で合流した一行は、門前町があったとされる無明門跡から山頂(401.6m)を目指した。
杉の神木から30分の取り上げ峠で一息つき、二重平10分ほど進み、東尾根取付を右に折れる。さらに20分ほど急な坂を上り息が上がったころ、平坦な空間が広がった。
ここが「草庵を営み修行と布教に専念した高寺山の聖地」(萩生田和郎著『青巌と高寺仏教』)だ。思わず手を合わせた。
一画にはロープが張られ秋の発掘調査を待つという。

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なだらかな斜面を下ると次第に道幅も広くなる。
しばらく立ちどまり、寺屋敷が並ぶ風景や、参詣道から奥の院を目指す人々の姿を思い浮かべた。

斎苑の脇を抜け、勝負沢の道を歩くと、古墳を示す看板が次々に現れた。ここは「宇内青津古墳群」(坂下町から喜多方市南部)で、前方後円墳13基、前方後方墳3基が残る。古墳時代前期(4世紀)に、古墳が継続的に築造された地域は、ヤマト地方以外ではほとんど存在しないといわれる。

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この時代の会津には、一箕古墳群(会津若松市)や、雄国山麓古墳群(塩川町東部)もあるから、大豪族の群立したまさに謎の時代といえる。
最も古い段階の前方後円墳、奈良の箸墓古墳(卑弥呼の墓?)は、3世紀中~後半の築造だが、杵ガ森古墳(宇内青津)は、早くも3世紀後半~4世紀初めには造られているし、しかも、会津には4世紀築造の前方後円墳が多数存在する。

前方後円墳はヤマト王権の広がりを示すとされ、会津は早々にヤマト王権の支配が及んだといわれるが、むしろ、会津を含む東北には、ヤマト王権と並ぶほどのクニが存在したと考えることもできるだろう。

会津は、太古から高度な文明を継承していた。磐梯町の法正相尻(ほうしょうじり)遺跡(4500年前)からは、関東や東北北部、新潟方面の土器が出土した。ヒスイや黒曜石の産地分析では、北海道から関東圏をつなぐ縄文後期のネットワークがあり、会津はその重要拠点だったことがわかる。

特に、阿賀川と只見川の合流する地域(坂下町一帯)は大いに栄えた。
阿賀川は新潟へ抜け、その先は広大な商圏が広がる。北九州から東北へかけての日本海沿岸の交易、シベリア東南部や沿海州、旧満州地域との交易もあり、坂下町には巨大な市場ができた。会津の豪族、特に宇内青津の豪族は、富を背景に強大な勢力となったはずだ。

青巌の祖国「梁」(502年~557年)に、『梁書』という正史がある。
499年に扶桑国(ふそうこく)の僧が梁に来て、日本には、倭国、文身国、大漢国、扶桑国があると言った。国の位置を検証すると「倭国は九州、文身国は北陸、大漢国は畿内で、扶桑国は北海道の渡島半島あたりである」(渡辺豊和著『扶桑国王蘇我一族の真実』)という。

扶桑は果実の樹でリンゴだとすれば、青森県一帯が連想される。東北には、縄文後期のネットワークを起源とした一大勢力があったと考えてみる。
さらに興味深いのは、499年に扶桑国の僧侶が梁の国へやってきたことだ。その東北の僧侶が梁へ渡ったのは、青巌の会津入りの40年ほど前だから、大陸との仏教の交流は、思いのほか早くからあった。ただし青巌の場合には、伽藍を建てたと伝える文献まで残ることが重要だ。

さて、梁の国王(武帝)は稀に見る文人だった。深く仏教を信仰し、七百もの寺院を建てたといわれる。多くの仏像や経典が百済を通して日本へ渡ったのは、皇帝菩薩とまでいわれたこの武帝の功績といってもよい。
しかし武帝の晩年は、自らが建てた寺に莫大な財物を与えるなどして財政は悪化した。
特権階級の僧侶や貴族のための仏教は、民を圧迫し次第に国も傾いていったのだ。

青巌が会津を目指したのは、ちょうどこの頃だ。

大陸の江南から、黄海を横断して百済に入る。
その後、対馬海流に乗り日本海を北上、出雲でしばらく休息をとり新潟へ、そこから阿賀野川を経て会津に入ったのだと思う。
それにしても2000kmを超える船旅である。

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頑丈な船と漕ぎ手の手配、寄港地での水や食料の確保、海賊対策など多くの備えが必要だし、何よりお金がかかる。いかに青巌の意思が固くとも、単独で行うなど無理だ。
青巌の会津入りは、彼を招く会津の豪族と航海のプロ集団の連携による、一大プロジェクトではなかったか。

522年にヤマトへ渡った渡来人、司馬達止(しばたちと)は、飛鳥の坂田に草堂を構え仏像を礼拝したという(『扶桑略記』)。
青巌会津入りの18年前だ。達止は青巌と同じ梁の人ともいわれ、仏像の請来や法会の開催などに深く関わった人物だ。仏師で有名な鞍作止利は孫に当たる。おそらくヤマト側から招かれ、仏教の土台を築いた功労者だ。
538年には、百済の聖明王の使いで訪れた使者が、欽明天皇に、金銅の釈迦如来像や経典、仏具などを献上した(仏教公伝)。

先述の扶桑国の僧でもわかるように、仏教は早い段階から東北にも知られていた。会津の豪族も、渡来人による仏教信仰に理解を示していた。
古来の自然信仰とも共存する新しい信仰が、やがて統治の重要な要素になると考えていた。

ときに、勢力を拡大するヤマト王権は、一挙に仏教を国家鎮護の骨格と位置づけた。仏教が世を動かすほどの存在になったのだ。この動きは脅威以外の何物でもない。
しかし、ヤマトへ入ったのは仏像と経典だけで、僧侶がいない。
伝道者が不在のままでは、仏教が根付くまでまだ相当の時間がかかる。会津の豪族はそう考えた。

ヤマトに先駆けて、民を第一とした新たなクニの仕組みを創ること。
それが会津を守り、縄文のネットワークを守ることになる。
会津には正しい方法で仏教を伝えること。そのためには、一日も早く大陸から僧侶を招かねばならない。
指揮を執ったのは、もちろん宇内青津の豪族だ。交易で蓄えた富を惜しげもなく使う覚悟はできていた。

極秘の作戦を持ち掛けた相手は、「安曇(あづみ)族」の首長だった。
安曇族とは、海上輸送で力をつけた集団(海人族)のひとつで、古くから中国や朝鮮半島の交易に関わり、その一部は九州の本拠地を離れて全国に移住していた。
信濃の安曇野(あづみの)は知られるが、熱海、安達太良、安積などの地名も、安曇族の移住を示すといわれる。
彼らは、交易の集団だが、同時に各地の情報を伝えることも重要な役目だった。梁‐百済‐ヤマトの仏教公伝ルートも、彼らあるいはその一派に支えられていたのだ。

宇内青津の豪族屋敷に呼ばれた安曇族の首長は、豪族のただならぬ要求に腰を抜かさんばかりに驚いたが、その意味は十分に理解していた。
ゆっくりとうなずき、ただ時間はかかりますと応えたが、豪族は一日でも早くと頭を下げたのだった。
安曇族は、独自のネットワークを駆使し、梁の青年僧、青巌の存在にたどり着いた。その知らせを受け取ると、さっそく豪族は青巌への手紙を書いた。

渡航費用の全て、会津での衣食住、布教全般について豪族が保証すること。渡航時の手配は朋友の安曇族が責任を持つことなどを記し、伽藍建築のための用地(後の高寺山)の見取り図も添えた。
使者から手紙を受け取った青巌は、豪族の熱意に深く感動した。
武帝と同じ失敗をしてはならない。民の救いこそが仏教の使命である。
扶桑国の南にあるという、この山と湖の美しいクニで理想郷をつくるのだと心に誓った。

540年夏、ついに青巌は会津へ入った。
一行は、2名の僧、仏師、土木・冶金技術者らを含め10名ほどになった。青巌は、木彫りの小さな阿弥陀如来像一体を抱え、浄土教を中心とした経典を持ち込んだのだ。
初めは阿賀野川のほとりに居を構え、毎日南の山(高寺山)を拝んだ。

毎日のように豪族や安曇族の首長と顔を合わせ、土木工事の段取り、道具の製造、資材調達、堂宇の建築方法などを伝授した。物資は極力現地で生産し、足りないものは安曇族のルートで列島各地や大陸からも運んできた。
千咲原のシャクヤクも、青巌が大陸から取り寄せ、薬草として栽培したものかもしれない。

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やがて、高寺山山頂付近に、きらびやかなお堂が建立された。
初めは、宇内青津の豪族に近い人々の信仰だったが、堂宇の建設が進むとともに、民衆へと広がりをみせた。
「青巌一行が、礼節を重んじ、自分たちが知らない多くのことを知っており、質素ながら敬虔な生活を送っていることに好意を寄せるようになった」(『会津史の源流を探る』太田保世著)ことも大きかった。

太古から伝わる自然信仰と、浄土への救いが一体となり、人々の心をとらえたのだろう。

最盛期には、堂舎、子院三千余宇、とその繁栄ぶりが伝わる。
律令国家が確立しても、各地に置かれた国造が会津には存在せず、国分寺と名の付く寺もなかった。これは、中央の政権から一定の距離を保ち、独自の自治が行われていたことを示している。

明らかに、高寺山の周囲には、独立した形での仏教王国が存在したのだ。
古くから会津に根付いた信仰心が、後の徳一の会津入りにつながったとすれば、会津の歴史はさらに不思議で奥深いものになるだろう。



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