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火焔型土器とアイヅ縄文文化圏

父の書棚には、「福島県史」(昭和47年発行)という大型の本があった。

表紙を堂々と飾るのは、柳津町の石生前(いしうまえ)遺跡で発掘された火焔型(かえんがた)土器だ。

縄文中期(約4500年前)の遺物で、土器の上部が炎のように見えることから「火焔型」というが、最初に発見された新潟県長岡市馬高遺跡の名称をとって「馬高式土器」とも呼ばれる。
この時代は1万2千年ほど続く縄文時代のピーク期で、さまざまな遺物が発掘される。

会津で発掘される縄文中期の土器は、新潟や東北南部、関東など多地域の土器の特徴を持つ。
これはさまざまな地域の人々が会津へ集まったことを示すのだという。

石生前遺跡の火焔型土器は、「口の部分の装飾や上半部の立体的造形は馬高式の影響だが、馬高式の基本的文様要素は前段階の会津地域ですでに生み出されていることから、これを究極までアレンジしたのが越後地域であるとする見方もできる。」(「まほろん」HPより筆者抜粋)という。
会津と越後は密接な文化圏だった。

『図説福島県史』昭和47年発行(丑込蔵書)


■哲学者の梅原猛(うめはらたけし)氏は『日本の深層』で、石生前遺跡の火焔型土器を絶賛してる。

「会津といえば、戊辰戦争と白虎隊のみが有名であり、この地に越におとらない、というよりは、日本でいちばん見事な縄文土器が出土することは、まだ土地の人にもじゅうぶん認識されていない。」

「火焔土器にあらわれる精神は、爆発する神秘主義といってもよかろう。その曲線は波や風の運動に見られるような自然の霊の動きをあらわしていると思われる。それは火焔土器においては、まさに、土器そのものを超えて、噴出し、怒号する。ほとんど極限に達した宗教的エネルギーの放出である。いったい、いかなる宗教的情熱が、ここに秘められているのか。」


■火焔型土器は、芸術作品のように思えるが、煮炊きをした痕跡が残る。

明らかに使いにくい道具なのに、一定期間作りつないだのだから、実利を超えた強力な思いがあったのだ。

縄文中期は人口がピークに達した時期だ。個々の地域集団がアイデンティティーを強めるようになり、互いに張り合うようにして個性的な文様が発達したと考える人もいる。

火焔型土器は新潟県の信濃川流域を中心に出土する。信濃川は食糧の源であると同時に、度重なる水害は猛威・呪いをも意味したのだろう。
その文様は炎ではなく、水の渦巻きを表しているとも思える(水煙(すいえん)土器と呼ぶこともある)。

温暖化による海水面の上昇で海水がどんどん陸地まで押し寄せる「縄文海進」を経験した人々は、自然の恵みに感謝するとともに、さまざまな水害から身を守るための祈りを込めたのかもしれない。


古屋毅氏(元昭和シェル石油勤務)は、火焔土器が出土した場所が石油ガス田の場所と一致することを発見した。

帝国石油が石油ガスを採掘していたガス田が、長岡市郊外の馬高遺跡の真下にあることに気づいたからだ。
ガス田からガスが吹き出すと液状化した重い部分(コンデンセート)も一緒に吹き出す。
古屋氏は、縄文人はこのコンデンセートを、火焔土器で燃やしていたのではないかと考えた。

そしてこの貴重な「燃える水」を各地にプレゼントする際の、口に入れてはいけませんよ(火気注意)という表現だったと推察するのだ。
受け取った側は、この特異な文様に刺激を受け、次々と新種のデザインが生まれたと考えてみるのも面白い。

ちなみに、会津地域における火焔型土器は、代表的な柳津町の石生前遺跡のほか、西会津町の芝草・小屋田遺跡、金山町の寺岡遺跡、会津美里町(旧高田地区)の油田遺跡、南会津町(旧田島地区)の寺岡遺跡、上ノ台遺跡などで出土している(『西会津町史』第一巻)。
なかでも油田遺跡は、その地名とガス田との関係がどうなのか興味深いところだ。

■縄文土器の縄文とは文字通り縄で付けた文様のことだが、この縄は麻縄だった。

古来、神社の鈴縄や茅の輪、何より注連縄(しめなわ)も麻を使っていた。
神社でお祓いを行う際に参詣者の頭上で左右左と振る祭具は「大麻(おおぬさ)」(別名「祓串(はらいぐし)」「麻柱(あなない)」)といわれる。

縄文土器は3000年ほど前に作られなくなったが、その縄は縄文人に用いられ続け、今なお神社・神道において用いられているのだ(戸谷学氏『縄文の神』より筆者抜粋)。

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麻の栽培は全国的に行われ、縄をはじめ、衣服全般・麻実油など、生活と深くかかわる植物だった。会津が誇る大沼郡昭和村の「からむし織」も、苧麻(ちょま)・青苧(あおそ)とも呼ばれる太古からの植物を利用したものだ。

会津にも「麻」に関連する神社として、麻島(あさしま)神社・青麻(あおそ)神社(会津若松市)、青麻神社(耶麻郡西会津町)がある。


縄文時代は、我々が考える以上に食料が豊富だった。

春には山菜が芽生え、夏の川にはアユなどがあふれ、秋にはクリやキノコ、阿賀野川や只見川ではサケもとれた。冬には山奥の動物が深雪を避け麓に降りてくる。
貯蔵穴(ちょぞうけつ)で食材を保管するなどの工夫で、年間を通じて豊かな食生活を送っていたのだ。

火焔型土器も煮炊きに使われたことは先に述べたが、竪穴式住居の中央にある炉を囲み、食事やだんらんを楽しんだはずだ。

考古学者の岡村道雄氏は、「炉のすぐ横には調理用の石皿やすり石を置いていた。調理や炊事のしやすい場所には女性が座っていたと思われる。囲炉裏でいうところの嬶座(かかざ)や横座(よこざ)(主の座るところ)の序列構造はすでに縄文時代の竪穴式住居にみられる。

入口から見て炉の奥には、石棒や徳利型の土器が発見されることがあり、その場所は家の祭壇と考えられる。」
という(『縄文探検隊の記録』より筆者抜粋)。

囲炉裏は、伝統的な日本の家屋において重要な場所だが、その原型がすでに縄文時代にできあがっていた。

食事も土器を使ってごった煮のようにして食べていたはずだから、それがさまざまな鍋料理として現代にも受けつがれているのだろう。


■「複式炉(ふくしきろ)」とよばれる特殊な大型炉がある。

これは縄文中期から晩期に福島県を中心に流行したもので、会津でも多くの遺跡で出土される。
「前庭部(両側面にだけ石を置く部分)+石組部(石組みの炉)+土器埋設部」という3つの部分で構成されているが、石組部と土器埋設部では火を焚き、前庭部では火を使わない、ということ以外どのように利用したかがわからない。

下屋敷遺跡複式炉『あいづのあけぼの原始・古代ー1』P18

トチやドングリなどをアク抜きするための大量の灰を確保した、焼き肉・蒸し焼きをした、パン状の加工物を作った、など諸説あるらしいが決定打にかけるという。

福島県内だけで約3000棟の複式炉を持つ竪穴式住居跡がある(新井達哉氏『縄文人を描いた土器』)というからなんとも不思議だ。

三内丸山(さんないまるやま)遺跡(縄文中期・青森市)は、全国最大の縄文の村として有名だが、会津地方にも大規模な集落があった。

約130棟の住居跡が見つかった法生尻(ほうしょうじり)遺跡(磐梯町・猪苗代町)、会津若松市の本能原(ほんのうばら)遺跡や上雨屋(うえあまや)遺跡、見事な火焔型土器を残した柳津町の石生前遺跡も大きな村だったに違いないが、本格的な発掘調査が少ないためにいまだに謎だらけなのだ。

縄文の長い時代を通じて文化の交差点だったといわれる会津だから、村々が連携して日本列島における名だたる文化圏を形成したと考えても不思議ではない。

私の探求する「不思議のクニ会津」の奥は深い。


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