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【2020年7月号アーカイヴ】『Tokyo発シガ行き➡︎』 "昔の作文"by 月イチがんこエッセイ

がんこ堂2020年07月

↑今月もまずは出力してお楽しみたい方のために。

この冊子はA4にプリントされたものをペキペキ折って一箇所に切り目を入れるだけで冊子になるスグレモノです。笑。
(↑作り方。すごく簡単です。原稿の真ん中に線入ってるのでそこで折ってください。真半分でなく数ミリずれるんですがそれがちょうど冊子の”つか”の部分になって製本した時綺麗にあうのです。わたしはA4フチなしで98パーセントで出力しています。プリンターにもよるかな)

以上アナログアーカイヴ。
では以下はデジタルで!

『Tokyo発シガ行き➡︎』  ”昔の作文”
【2020年7月号アーカイヴ】 

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 6月の終わりに、このエッセイの挿絵でお馴染みの文筆家の妹(ここ数ヶ月挿絵はちょっとお休み中)美粋、が33歳の誕生日を迎えた。
わたしが溺愛している姪っ子「ベスフレ」の母でもお馴染みの美粋である。ちょうどイーディの2階での彼女の展示が終わった直後でもあり、同時にちょっと色んなことが複雑に絡まりあった中でのお誕生日で、わたしは今の美粋に贈るべき祝辞をスピーチレス、紡げないでいて、考えあぐねた結果、母にこの作文を写メしてもらい、これをお祝いの言葉にすることにした。

 この作文は、この回と、また別な時に書いた「妹の子守」という作文が「よく書けている」とのことで、市の文集コンクールのようなものに出品され文集になり、当時は我が家でもかなり話題になったのだが、そういえばその時生まれたばかりの美粋はこの作文の存在を知らなかったので、なんと今回が初読となり、そういう意味ではタイムカプセル的なお祝いの言葉となった。自分もこの作文を読み返したのはなんと30数年ぶりだったのだけど、なになに、8歳が書いたにしてはなかなかじゃない!笑 と思い、今回のがんこエッセイに掲載してみる。

*  *

わたしの妹     守山市守山小 三年

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土曜日の朝、お母さんが入院しました。家に帰って話をきくと、さんかん日に行こうとしたお母さんの体から血が出てきたそうです。その日、車で病院に行きました。お母さんのおなかは、パンパンで、となりのおばちゃんの赤ちゃんは、すうすうねていました。そして、その日は、小浜に行きました。
 おふろから上がるとおばちゃんが、
「えらいこっちゃ。えらいこっちゃ」と言ったので、
「どうしたん?」と、きくと、
「なんやろうなあ。えらいこっちゃ」と言いました。それで私は、リンゴを食べるやくそくをしていたので、
「リンゴが用意できてへんねやろ」と言うと「ちゃうちゃう。えらいこっちゃえらいこっちゃ。」と言いました。するとおふろから先に上がった彩女が
「赤ちゃんが生まれたんやで」と言いました。わたしはびっくりして、そしてやったと思いました。

さて次の日2時半ごろ病院に行くと赤ちゃんがかわいい顔をして目をあけていました。開いてみると手にゆびを入れると、ぎゅっとにぎってはなしてくれません。とってもかわいい赤ちゃんでした。

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 ところが美粋(生まれたとこの妹)は、一ヶ月たたぬうちにわたしのかぜがうつったらしく三八ど九ぶくらいのねつが出ていっしょに病院に行きました。そして美粋だけ次の日も行きました。お母さんは帰ってきて、
「美粋ちゃん入院してくれやて」といいました。その声は、いまにも泣き出しそうな、かなしそうな声でした。そうしてお母さんは、美粋ちゃんをだいて病院にいきました。
『美粋ちゃんしなないかな。元気でいるかな』
と私は思ったりします。夜、
「美粋ちゃん死なない?」とききたかったけど
「あんまり死ぬ死ぬ言ってあんたは、美粋ちゃんに死んでもらいたいんか。」といわれるかもしれないという不あんがあったので聞くのをぐっとこらえました。
 美粋ちゃんが元気にたいいんしてから私と妹と、小浜にいきました。車からおりると二人とも走りだしました。まず、おばあちゃんたちにあいさつをしました。妹はお母さんにだきついていました。私は(やっぱり彩女ちゃんさびしかったんだな)と思いました。そして美粋ちゃんがおきてからおふろに入れてミルクをやりました。のましてねかすとすぐミルクをはきます。
 きょうだってお母さんが横見ながらのましたのでむせてしまいました。私は、
「あーあ。かわいそー。」と言いました。本当に一人前にコンコンせきまでしています。かかわいくてなりませんでした。九月になってから美粋は、名前をよぶとよくニッとわらいます。かわいいのでもう一ど、
「美粋ちゃん。」
と、よぶとまたニッとします。本当にかわいいです。それから美粋は、名前をよぶと「アウーアウー。」
といいます。まるでへんじをしているみたいです。

【指導のことば】
美粋ちゃんが生まれて、これで昭子さんには二人の妹ができたわけですね。この作文を読んでいると、さすがにおねえさんになった人は、ちがうなあと思わせるところが、あちこちに見つかります。たとえば、「一人前にコンコンせきをしています。」というような言い方や、「やっぱり彩女ちゃんさびしかったんだな」と、妹を思いやる文などに、おねえさんらしい、あたたかい目を感じます。
 ようすもくわしく書けていて、とてもわかりやすい作文だと思いました。(中島慶次)

※昭子さん・・・私の本名  ※彩女・・・すぐ下の妹
※小浜・・・前回のエッセイにも出てきた母の実家 

   *  * 

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せっかくなので「指導の言葉」も載せてみる。なぜならとても温かいから。
先日、幻冬舎の編集者と昼ごはんを食べた。いま出版社も大変なので、わたしの新作「わたしと音楽、恋と世界」も宙ぶらりん、どこから出るのか、未だ先行き不透明である。けれどそんな中わたしをランチに誘ってくれたまどか嬢の胸中、その愛をひしひしと感じ、わたしたちは敢えてこの原稿については触れず(わたしもまどか嬢も大人になったのさ 笑)雑談なんかをし、それからこの作文の話になった。

「いや本当に、筆致や作文そのものではなく書いている子どもたちの日常に心を寄り添わせているところが温かいですよね」
プリンを食べながらまどか嬢が頷く。おもしろ。なんか不思議な感じ。
守山市の文集に載った子どもの作文の指導の言葉について、吉本ばななさんや川上弘美さんの本を担当しているまどか嬢が真剣に語ってくれる昼下がり。きっと中島慶次さんもこんな未来を予測していなかっただろう。
この作文を書いた昭子さんは、この数年後に吉本ばななの本と出会い、江國香織の本に救われ、山田詠美に激突して、作品たちと一緒に大人になって、そしていつしか小説家になりました。指導の言葉の中島慶次さん、小説家になった今読んでも、やっぱりこの指導の言葉には心救われます。
今どこで何をしてらっしゃるでしょう。わたしは41歳になった今もこうして作文を、書き続け、この守山で発表し続けています。

 まどか嬢は先に「妹の子守」の方を読んでいたので、解散した帰り道にこの「わたしの妹」の方をLINEに送る。『会話文の使い方、素直な心情にキュンとします』まどか嬢はいつもとても大切にわたしの書いた作品を扱ってくれる。幻冬舎は見城さんのイメージが世間では強いけど、わたしにとっては彼女との日々が幻冬舎のすべて。
『もかこさんは生まれながらの作家さんですね』
てへてへ。この言葉を抱きしめながら、所信を貫きこの出版氷河期を生き抜いていくつもり。これからも、まどか嬢と。

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なかじま・もかこ/ 守山市出身。1979年生まれ。附属中学→石山高校。2009年「蝶番」にて新潮社よりデビュー。Twitter→@moccatina
[Desigin by Miyako Watase]

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最新号[2020年8月号]「わたしは何者なの」
は現在滋賀県守山市の本屋さん「がんこ堂」さんと、わたしが女主人をつとめる根津の芸術酒場「イーディ」にて絶賛配付中です^ - ^

引き続きバックナンバー[2019.2月〜2020.5月まで]も更新していきます、お楽しみに!  

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