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第17話 ✴︎ 「 痛みに鈍くなりすぎて/愛しき我ら世代に捧ぐ」By"イーディ/InnocenceDefine”✴︎2021✴︎

最近、一寸先の未来に起こるかもしれぬリスクや摩擦や痛みに敏感になりすぎて、いつもそこに意識が強く置かれているから、現状、今、自身をえぐっている生傷や、生ものの痛みに鈍くなりすぎているような気がする。

なぜ「愛しき我ら世代に捧ぐ」としているかというかというと、いわゆる10代や20代って、当時はすごく「うおぉぉぉ!」という気持ちで生きてはいたけど、起こる出来事にタイムリーに痛んだり病んだり、泣きわめいたり、つまり不安であったり、センシティヴすぎたりすることが許される年代だったと振り返れば考えていて。
許されるというか、まあ41歳くらいの人間から見ると荒れてる20代とかって「まだまだ情緒が不安定な時期だもんね」って寛容に見れる。
同時に30代に入ってくると(もうそんな感じではいかんよな……)とか思い始めてまたそこで悩むと思うのだけど、今わたしが危機に感じているのは同世代の我らみんなのことだよう。
30代後半から40代前半、ひいては50歳くらいの我らが世代よ、
ねえ、じぶんの痛みにちゃんと気が付いていますか?笑

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(⤴︎イーディは2/11から時短でポツポツ再開し始めました)

今感じていることを上手に書けるかそれもまた分からないのだけど、
わたしは41歳になって「焦燥感」すらも感じる時期も終わってしまった感じがしている。ええとわたしはお店を始める2019年以前は基本的に役者を志している時期と、作家デビューしてメジャーでバンバンやっていた時期と、それを放棄してアングラにこもったこの6年とが、人生経験だから、まずは表現者としての視点から語ることになるのだけど、つまり「何者かになろうともがいた時期」「何者かになった時期」も終わって「何者かになったけどさしてパッとしない時期」も経てしまうと、もうただただこのわたしの信じる表現活動を今後もコツコツ続けていくだけ、という感じになるのです。
そもそも自分を貫きたくてメジャーで仕事をたくさん頂いていたにも関わらずアングラにこもったわけなのだから、生活やイーディや作品や読者のために今年から先は「売れないと話にならん」ことはわかってるけど「売れたい!売れたい!」という感覚じゃない。

だからレディオを始めたけど、あれももう、レディオをただ「やってる」だけで満足なのであって、そこがゴール、つまり始めたその日からゴールに到達しているんであって、登録人数を延ばしてYoutubeの入り口から売れてやろう、とかも思っていない。もちろん始めた理由は新作「わたしと音楽、恋と世界」のためで、いつかあれが本になった時、読者がこのyoutubeを見返したら2倍楽しいように構成してるけど、それも「起きもしないかもしれないもの」への未来の準備をわたしが勝手にしているだけで、世間に何かを問いかけるものでもない。

お店もそう。色々大変なことはあるけど、自分が経営者になるって決めて広げた風呂敷だから、いかに丁寧に自分らしく心を尽くして広げて、ぐちゃぐちゃになりそうな折にはパッとたたむような気概だけを懐に、
日々を丁寧に紡いでいくしかない。

でね、思うわけ。
40代っていろんなことがこう、大人として丹田におとしこめるようになって、みんなの痛みや世間の理不尽さもすごくよくわかるし、また、そんなことにブツクサ言っても目の前の自分の課題が解決はしないこともわかってさ、つまりシクシクと対応していくことができるようになったけど、

10代の頃のように取り乱したりもできなくて、辛くないですか?
というか辛い自分にすら気がつかなくて、怖くないですか。笑。

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最近、珍しく自分が、なんでも打ち明けられて甘えられる恋人が欲しいなとか、普段思いもしないことを思っていたので(わたしは好きな人がいないときに恋人が欲しいとか思わないし、まず恋人に基本甘えたいとか辛い時に傍にいて欲しいとかこれまでは概念として思わなかった)、
どうしたわたし!? と思って自分を掘り下げてみたら、
わたしは、冒頭にも書いたように、
一寸先に起こるかもしれない人との摩擦に怯えているのであった。

基本怖がりだし気にしいだから、人に攻撃されるのが嫌。
同時に私小説作家で、アーティストだから、表現の土俵では「えええー」ということもババン、とエモーショナルに打ち出すことがあるので、怖がりだし気にしいな本当のわたし、つまり本名のわたしと、表現者のわたしには乖離というか二面性がある。でもね、作品ベースのものだと、作品を介して解決ができるし、私生活では逆に簡単で、自分が人に攻撃されたり逆恨みされない行動をとっていればよかった。だからわたしはTwitterとかブログも過激なことを言う方じゃない。もちろん、エモーショナルなテンションは持っていてそういうのはインスタに書いてるから、浅い知り合いは「モカコさんどうした!?」ってなる時あるけど、古い知人は「今は多分そういうモードなんだろう」って理解してる。インスタでのエモーショナルも一つの表現として放っているという風に。

だけど、去年は、恨まれるかもしれなくても人を「斬り捨てる」ということを、店のためにしなくてはいけない場面がいくつもあって、慣れないことだからそれはわたしにはとても辛かった。同時に、思いも寄らないところか矢が何十本も飛んでくるようなこと、あととても尊敬している人を知らないところでとても不快にさせていたり、そんな出来事がたくさんあって、わたしはけっこう、打ちひしがれた。

たぶんわたしは、このご時世も合間って加速していく、これから1秒後の誰かとの摩擦が、死ぬほど恐ろしいのだろう。

だから恋人——つまり仮想設定に置いて、どんな時もわたしを誤解せず、わたしの決断をそれでよかったと言ってくれて、お疲れ様と言ってくれる人——が欲しい、ってことになっている。

そう、だからこそ、その発想は根本的なところの解決に何もならない。

つまり恋人ができたり結婚をすれば、人生がとにかくよくなって今の憂きことが全部消滅するんだ!と思った人が恋人ができた時や結婚をした時に、
何も解決しないどころが人生の課題が増えるだけだったことに気づいてより不安定になる現象と同じで、
このわたしの恐怖(問題)も、当然恋人ができても解決はしない。
だってもし恋人ができても、その人がわたしを想えばこそ逆の意見を言ったり、わたしの決断を「あれはやりすぎじゃないか」というかもしれないとしたらその時わたしは身が引き裂かれて死にたい気持ちに、絶対になるのだから。そしてわたしは経営者で、栞や常連の愛しい日々を任されている人間だから、恋人に何か言われてもおいそれとは従わないよ。
先日、親友のライヴに一緒に行った自身もよう稼ぎはる経営者の”オソP”に「モカちゃんもう、考えかた完全に男だな 笑」って笑われたんだけど、そうなんだよね。そうなってしまったんだよ、店を持ってから。

(ごめんちょっとジェンダーの課題は置かせてもらってなんとなく会話に出てくる男っぽさや女っぽさ、差別じゃなく区別としての、漠然とした性差で書かせてもらうね)

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とにかくわたしは、1秒後の未来に到来するかもしれない誰かとの摩擦が天災の到来と同じサイズ感で恐ろしく、日々怯えているとして。

ここでわたしが、タイトルにも書いた「愛しき我らが世代に捧ぐ」問題があるのだけど、だけどだからってわたし、SNSやめて、レディオやめて、摩擦が怖いからって全ての発信をやめて、休みの日は家にこもって、お店の日はそっとカウンターに立って、揉めそうなことがあっても誰も出禁にしたりキツイ言葉を使わず……なんてできない。

20代の頃はそういう極端さを持っていて、誰かに「デブ」とか言われたらその場ですごく病んで、しばらくは人前でものが一切食べられなくなったり、
食べたものを親の仇のように怒りと共に吐いたり、あとは男の人は好きだからって寝るわけではないのだ! という衝撃を受けたあとはしばらくとてもイージーライディングな女になってみたり、そしてそう振舞うがゆえに相手に大切にされないとか、そういう無意味なスパイラルがあったけれど、
今は(いやいや、そんなん根本的な解決に何もならんやろ 笑)って思ってしまう自分がいるから、仮にレディオとかも、毎回投稿してから、用いた言葉が思わぬところで誰かを不快にしてはいまいだろうか……ってちまちま不安になったりしているけど、だからってレディオをやっぱり辞める!
みたいな鬱屈さは持てない。笑

(⤴︎だから貼るよね、怖くてもさ 笑)

だってわたしの今世における仕事って「発信者としての中島桃果子」それに尽きるんだろうなって本能的に理解しているから。
つまり「こうなりたい」という自身発の欲求ではなく、これまでの道、わたしはなぜ小説家にならせてもらえたのだろう、わたしはなぜイーディを始めて芸術酒場女主人となる運命の流れにいたのだろう、そういうことを考えた上の役割としての天命というか。
わたしはやっぱり「外向き」に生きていかねばならんのだ。

まあでも、先々の痛みのことばかり考えることから少し離れて、
今直面している痛みについて考えたことで、
自分自身が、摩擦に対して怯えていることがわかったのはよかった。

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(⤴︎そう思い、22歳のころ自分が書いたフレイズを召喚 笑)

わたしたちって最後の体育会系世代。わたしたちがジェンダー問題に不理解かどうかはともかくとして(わたし自身は昔から極端に女ぽい感性と極端に男ぽい感性が同居して自分がよくわからなかったので、ジェンダーについての自分の感覚は拓けていると思うけど)、ともあれわたしたちは「女なんだから」「男のくせに」と数分に1回は言われて育った。大げさじゃなく「男子〜!」「女子〜!」って言いあって1日を過ごしてきたんだからね。

最後の体育会系世代が2021年にだいたいaround 40になって、今の時代の価値観などにアジャストしながらも、最後の体育会系世代の根性も見せて、辛いとか弱音とか吐かずに、シクシクとファイトしないといけない。
ファイトするのはもう古墳文化なのに、ファイトしたり、耐えたり、頑張ったり、しちゃう。笑。もっと怖いのは、それが無意識なこと。潜在的な何かがわたしをそのように突き動かしてゆく。お客さんがお店のために泡開けてくれたら体調悪くても頑張って飲んじゃうとかさ。笑。
(いまはわたしはそうしてないし、また体調崩して入院とかされたら困るからお客さんもわたしにそんなこと望んでいない)
りさことかも来たら2本は泡入れるのが仕事みたいに頑張ってくれるから、わたしたちは今年は「ゆるくいこうぜ」協定を結んだ。笑。

だからね。なんか最近10代の素晴らしいアーティストの目覚ましい活躍を目の当たりするにあたって——ビリーアイリッシュとか、崎山蒼志くんとか、数えきれないくらい色々!——わたしはね、我らが世代のことを想うのです。わたしはたまたま音楽やArtには柔軟だからあれだけど、もし今時の若い子らの表現が「さっぱりわからんくて」と思っても、もう、これが今のトレンドなんかと思って寄せていく努力とか、せんでいいと思うよ!笑

だからわたしは「50代のみんなのために」って歌い続けるエレカシの宮本さんが好きだよ。我らが世代はこれを聴いて元気を出して行こうよ。笑。

♩例えば若き日の夢が 悲しみと交差するとき
その時から人のナミダが希望を語り始めるのさ

こんな歌詞はさ、やっぱ大人にならないと書けないよ。
だからわたしたちが大人になってしまったことで、どこか繊細さや、自身への痛みへの感度を失い、それをいつかの座標に置き忘れてきたとしても、
また誰かの涙が、歩いてきた日々の意味を教えてくれるのさ。
その時に痛みを思い起こすことは簡単さ。だって、なぜ痛みに鈍くなったのかを考えてみたらいいんだよ。答えも簡単さ。痛みに鈍くならないとやっていけないくらいのガラスのむしろの出来事の上を裸足で踏んで血まみれになって歩いてきたからさ。

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そして同時に思うのです。今世界は、かつてないほど若い世代に向かって拓かれているから今後も若い才能はどんどん出てくる。

でもさ、我らが世代のための作品が、少し少なすぎやしないか。笑。
我ら世代は働き盛りで、マーケットにはならないかもしれないけど、でも、我ら世代にも、昼間戦士をして、眠る前に聴く音楽や、ちょっとした映画や、ドラマ、そんなものが必要なんだよ。だからわたしは今シーズンのクドカンドラマ「俺の家の話」を強く推しているし、
自分も表現者のはしくれとして、

世間のトレンドとかはわからないけど、等身大の物語を書き続けて行きたいと思うよ、愛しき我らが同世代とちょっと上、に捧ぐ、日々の物語。

それが若い子たちに「あんまちょっとわからない」と思われたとしても。
本は時空を超えるから。またその子たちがわたしたちの世代になった時、新たな角度から、出会い直してくれるかもしれない。発売から6年も経って「誰June」が16歳の男の子から「ノスタルジックで美しい」とファンレターを頂くこともあるように。ノスタルジック!なんて斬新な感想なの!!

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2000年代初頭の喧騒は16歳の瞳には青くて碧なセピアなムード。

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