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【時雨こぼれ話④】三上於菟吉という男<2>

本日Topに使った写真は、何年か前に漆陶芸家の友人に貰った盃の写真で、素敵な盃なのだが春画だし、気に入ってる写真なんだけどどこへ載せるのという感じがあってずっと出番がなかったのだが、三上於菟吉という男であり大作家の豪胆さや、色っぽさを表現するにはぴったりの写真のように思えて、これを使うことにした。この写真が晴れて日の目を見て嬉しい。

さてvol.2となる今回は、菅原宏一さんという講談社の編集者の方が書かれた「私の大衆文壇史」という著書に書かれていることがほぼベースになります。前回はこちら。

というのも長谷川時雨さんについてはいろんな人が彼女の人となりを書き残した文献があるのに対して、三上さんのものは作品こそあれ、誰かが書いた彼の人物像のようなものはとても少なく、三上さんの専属編集者をしていたこの菅原さんの著書は大変貴重であり、唯一とも言える三上さんの伝記である。この方は三上さんよりも十数年年下であり、つまり長谷川時雨さんとは親子ほども年が離れていたので、例えば彼の中では三上さんの最愛の女性は羽根田(芙蓉)さんとなっている。その見方はいわゆる20代なかばの男の子が、30代後半の売れっ子作家の担当編集者になり、奥様は50歳を過ぎておられて愛人は自分と同じ歳の頃と考えた場合、自然な発想でそうなったのだろうなと思う。

菅原さんによると、彼が三上さんに初めて会ったのは昭和2年の10月頭で、
三上於菟吉はその少し前に「百鬼」という作品が大当たり、出会った当時はもう押しも押されもせぬ大流行作家だったという。

講談社の編集者で三上さんの大学の先輩にあたる淵田さんという人が、
「三上さんは外でばっかり原稿を書かれるんでね、君は不慣れで困るだろうが、なるべくお宅で書いてもらうんだな。菅原くんはまだ若いですから、あんまり困らせないでよろしくお願いしますよ」と紹介したらしい。
三上さんは「大丈夫ですよ」と言って女のようにオッホッホと笑ったらしいのだが、次に彼が三上さんを訪ねた時にはもう家にはいなかった。若手菅原は当時三上さんの情報に一番通じていたプラトン社の編集者から吉祥寺の「田舎」という割烹旅館にいると聞いて、そこを訪ねる。三上さんを探しているのは当然自分だけではなく、バス乗り場でキング編集部の社員と会い、
たどり着いた「田舎」には、プラトン社の吉川さんという女性編集長がすでに三上さんと盃を交わしていた。
(この女性編集長は三上さんの大学の同期らしい)
菅原さんは、酒を強いるという三上さんの前情報を聞いていて「絶対に酒は飲むまい」と決めていた。案の定盃が回ってきた時に「仕事中は飲みません!」と一点張りで拒否すると三上さんはニヤッと笑って、
「吉川くん、この子はまだ子供だよ」と言った。菅原さんは大変憤って「締め切りまでには原稿をちゃんと書いてください!」とだけ言って帰ったという。

作家に接する気合いもテクニックも何も知らない、
ほんとうに子供であったのだ。

菅原さんはそう回顧している。

三上さんの原稿を取るのは難問中の難問と言われていたらしい。
まず家にほとんどいない。次に料亭から料亭を雲隠れしていて所在がつかめない。(この料亭とは待合のことだと思います)
料亭にお邪魔したらしたで酒宴の最中、酒を強要される。
断ると口を割って飲まされる。
また飲んでいる時は機嫌が非常に変わりやすく、今までニコニコしていたかと思えば突然猛り立って乱暴狼藉に及ぶ。寂しがりやで身辺に誰かついていないと不安でいられない。帰ると言っても決して帰さない。
迷惑千万であるそれら。これは嘘ではなかった、
けれど同時にこれは「三上さんの一面であった」と菅原さんは語っている。

菅原さんは、料亭(待合)に三上さんを訪ねるにはお昼前が一番いいと経験から悟ったという。深夜まで深酒しても昼前には起きて風呂に入る。
風呂から上がった時分が一番正常値が高いということで。
同時に菅原さんは「三上さんは本来酒の好きな人ではなかった。酔いを買うために飲んでいたので自宅では一滴も口にしなかった」と書いていた。
しつこく襲ってくる自己嫌悪や人生、文学上の憂悶を紛らわすために飲んでいたのであって、本心は気の優しい、親切な人であった。菅原さんはこう書いている。

菅原さんと三上さんの間に不思議な絆というかができていたのは、菅原さんが三上さんより14歳も年下で、若くて初心(うぶ)なところがあったからではないかなと思う。なぜそう思うかというと本人も二人の関係にとって大きなあるきっかけとなったと語っている出来事があって、
それは昭和三年の正月に菅原さんが三上さんを日本橋中洲の「新布袋」という待合に訪ねて行ったときのこと。

訪問には最も良いタイミングのお昼前であったが、通された部屋には艶やかな寝具が敷いてあって、なんと三上さんと女主人が同衾(どうきん=一緒に寝ていること)していたのだ。しかも横に座った菅原さんの前でふたりはふざけ散らしてみせたとある。おそらく悪戯心でコトを始めたというコトでしょう。菅原さんは悔しくて無念で腹が立って、編集者とはこんな屈辱に耐えながら原稿を取らねばならないのかと思うと、思わず涙がはらはらとこぼれてしまって、座敷を飛び出し玄関脇の小部屋に駆け込みしばらく号泣したのだという。「後で考えてみるとこの小事件が、反省心の人一倍強かった三上さんの胸に意外な衝撃を与えたらしい。以後三上さんは私に対しては、そう無茶なことは言わなかったし、相当に信頼もしてくれたのは、ここに原因があったように思う」菅原さんはこう書いている。
三上さんを理解する記者たちは、苦しめられながら、みんな三上さんを好いていた。人柄にそれだけの魅力があったし非常に親切でもあった。

暴君のような反面には人一倍才能や誠実を愛し、新しい才能の出現に対しては、心から推重してやまない一面があった。この一面というのは「時雨美人伝」で林芙美子の回にも触れた。三上さんは片山廣子とデート中であり、それを時雨さんに知られたらまずい状況であったにもかかわらず、カフェで渡されその場で丁寧に当時無名作家であった林芙美子の原稿「歌日記(のちの放浪記)」を読んだのである。

わたしのイメージでは三上さんというのはストレートで正直な感情表現にとても弱いところがあったと思う。そして本人も実はそう生きたい人だったのだと思う。女主人とのエロティックな悪戯に「号泣する」というストレートな反応で感情表現をした菅原さん。愛人の羽根田芙蓉さんは、素直で飾らない人だったと聞くし、時雨さんも、何かを強く決める時は直球しかないような人である。

三上さんの豪胆さというのは酒の勢いを多大に借りたものであり、本来は優しくて小心者(自称小心亭と呼んでいた)であった性分もあって、その繊細さゆえに彼は大売れしてからも本来自分は純文学を志していたという負い目というか引け目を感じたりしていたから、やはり「やりたいこと」にぶれずに突き進む時雨さんを羨ましく眩しく思うところはあったのだろう。
けれどかなり年上の女房の、底なしに目覚しい活躍というのは、
幾つかのジレンマを三上さんにもたらし、
三上さんは癒しを羽根田さんに求めてしまったのだろう。
そしてそれが時雨さんの落ち度ではなく、時雨さんの素養と才能由来のものであっていわば時雨さんは何も悪くないというところで、
三上さんは、羽根田さんに逃げている(ように思える自分)に、
より一層自己嫌悪というか自分を追い込んでいったようにも、わたしには思える。引き続き「三上於菟吉という男」続いていきます。
次回は彼と純文学、そしていよいよ羽根田芙蓉さんのこと。


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