月モカ_180910_0091

月曜モカ子の私的モチーフ vol.181「尊重する」

地下鉄の階段を上がっていると少し前にランドセルを背負った小学3年生くらいかな? の女の子が二人会話していた。
「ねえ、どこにエールを送るか決めた?」
「エール?」
「ねえ、何組を応援するかってもう決めた?」
「まだ決めてない」
「アタシは、決めたよ。そんでねえ、すっげえ応援の仕方も、決めた」
そのやりとりがひたすら可愛い。すっげえ応援てどんな応援だろう。
                                    
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実はわたしはかつて身内や口コミ前提で、タロットで人を視るということをちょこちょこやっていた。割と好評で、なんだかんだ時々頼まれて視ていたのだが、物語を書く力に比べて絶対的ではないなと思っていたし、他にも色々理由があって3年前に1度辞めたというか長期の休みに入った。
こういうのは不思議なもので、お知らせしなくても自分が中止すると自然と「タロットしてほしい」連絡してくる人もいなくなる。なので自然消滅して3年が経ったのだが、
最近また新しく周りの声などあって、再開する運びとなった。それと連動して、魔女とか魔法とか、オカルトっぽことに関しての記事(別に頼まれていない)なんかも書いているのだが、ときどきその記事に、顔は伏せてベスフレの写真を使わせてもらっていた。
そして先日妹から、色々考えたんだけど、やっぱり今は写真を載せない方向でお願いしたいという旨の連絡が来た。

                           
その時、その、載せるのを控えて欲しい理由というのが素晴らしいなと思ったのだが、妹はこのようなことを言った。
今はまだベスフレも大きな意思決定が自分で出来ないけど、
それでも彼女が自分で自分の人生を決めていく、ということを尊重したいという方針で子育てをしている。そしていつかそういう局面に来た時に、なるべくその選択に変な負荷がかからない状態にしてあげたいから、今はまだ「何かしらの意味」が出てしまうものに対して、彼女が決定できないのなら、親が勝手に決めてしまうことは避けようと思う。
                          
「なるほど。それはつまり、いつか、もしも仮にベスフレが大人になって“タロットを撲滅する会”の会長になったりした時に、え、でも子供の頃は推進してたやん、てならないたいめだね」
わたしが言うと、妹は「まさにそういうことやねん」と言った。

                           
これはもちろん一つの例であって、ベスフレが「タロットを撲滅する会」を立ち上げ、その長(おさ)になる可能性は限りなく低い。笑。
                           
けれども同時に、親が勝手に「わたしの子だからきっとこうなる、とか、こうならない、とかこうなはず!」とかを決め込んでいるのはそれもまた違うよねということでもあって、結構深い議題だなと思った。
個性や個の決断の尊重ってどこらへんを線引きとするのか、世の中の親御さんたちは日々自問自答を繰り返されているのだろうなと思う。
例えば10歳だからまだ何もわかってない、と考えて親が決めるとした時、じゃあ15歳ならどう? 20歳なら? ってなると、傾向として10歳だからまだ何もわかってないと考える親は子が25歳になっても「いやいやまだまだ未熟だから」と思ってしまうかもしれない。
逆に小さくても意思を尊重することを重んじた場合、意外と子供が大きく転んだりして、もっと干渉するべきだったと後悔するかもしれない。

                           
今朝、たまたまアラビアに行った時の資料を返し見ていたのだが、サウジアラビアでは娘の結婚相手を母親が決めるとあった。それは若い娘よりも母親の方が娘のことも恋愛のこともどういう結婚がいいかもよくわかっているからとのこと。この子の性格だとこういう相手だとどうせこうなる、ほらね、ということなのだが、この話には続きがあって、しかしそうやって親が決めた結婚相手に絶望した少女が井戸に身を投げて死ぬという事件があったと、ノートには書いてあった。書いたのは自分だが、そこでメモが終わっているので、結果的にサウジアラビアの母親たちがそれでも今も親が決めた結婚が是と思っているのかどうかは謎のままであるしこの話の着地点がどこだったか思い出せないけれど、これもやっぱり、子供はじぶんの子供であっても別の生き物であって自分に帰属しているものではないということについて考えさせられる出来事だ。

                           
この月モカでも書いたかもしれないが、去年12月にベスフレと妹と一緒にゴッホ展に行った。上野公園はまだ晩秋で、道にはいっぱい、敷き詰められたように落ち葉でいっぱいだった。その中でベスフレは気になるところで立ち止まっては落ち葉を拾っていた。その中の1つがあまりに汚くわたしには見えたので、
「きれいな落ち葉他にいっぱいあるんやから、そんな汚いの捨てたら」
と言った。わたしとベスフレは関係性が対等でここまでやってきてしまったので、わたしも普通に友達に言うみたいに軽く言ってしまった。
                           
ベスフレはちょっと考えて(そうかな)という顔をして落ち葉を捨てようとした。その時に妹が「いいんだよ。あなたの感じることが一番なんだよ、モカちゃんが汚いと思ってもあなたが気に入った大切な落ち葉ならずっと持っていていいんだよ」とベスフレの目の高さにしゃがんで丁寧に言った。
ベスフレは「実はこの落ち葉、気に入っている」と答えた。
                           
わたしは慌てふためいてしまって、
「安易なこと言ってごめん! あんたが気に入ってるならずっと持っていていいから!!ごめんごめん」となり、
その後、うんうん、その落ち葉悪くない、ベスフレが見込んだ落ち葉なんだからそれ素敵なんだわ、モカちゃん気がつかなったわ、というモードを全開に出してしまったので、
逆にベスフレが(これをずっと持っていたらモカちゃんがずっとわたしに気を遣う感じになりそうだな)と思ったらしく、そこから100メートルほど歩いたところで「また新しい落ち葉に会えると思うからこれとはバイバイするね」と言ってそれをその場に置いた。
それで妹には「3歳の姪に気を遣わせる伯母な・・・」と笑われてしまったのだがーーベスフレは小さくとも抜群に空気の読めやつであり、人の心の機微を見抜くのに長けている、同時にそれを逆手に取り悪事を行うこともあるーー、この時もそういうことなんだよな、と思った。
そういうことなんだよな、というのは子供を尊重できていない時、意図的ではなくうっかり無意識でそうしている、ということなのである。よく考えると彼女自身の意見を聞きもせず尊重もせず、「汚いから捨てなよ」って言ってしまっている。それは意図的であるより、起こっていることを把握できていない分たちが悪い。(自分のこと)

                           
今回もそうだなと思った。そして妹はよくそこまで考えられたなぁと思った。大人の事情や親の意向でSNSに載せてほしくないとか、自分の子供の写真を使ってほしくないというのは、ままある話だけど、
いつか大人になった時にその思想や世界観の足かせにならないようにということを、子供が4歳の時から考えていくのは、相手に対するすごい尊重だし、すごいことだなと思った。
もちろん親にも個性があるから、おそらくすぐ下の妹なんかは、子供は幼ければ間違うのだからある程度の判断がつくまでは親が決めた方が傷が少ないのではないか、と考えそうだなあと思うし、その両者どちらに対してもわたしは意見をするつもりはない。ただ、わたし自身はベスフレの写真を使うにあたって、そこまで深く、考えられていなかったなあと思った。
                           
そして自分の母が、まだベスフレがもっといろんなことがわからない時からlineなどにも娘たちと**ちゃんへ、と名前を記していたり「**ちゃんにもどうしたいか聞いておいて」と、報告で済むようなことを必ず確認をとっていたことを思い出して、それはこういうことだったんたろうなあと思った。

                           
小さくて間違いやすい生き物だけど、時に無駄に長く生きてしまった生き物よりも鋭く本質を見据えていたりする。
そんな子供たちと、わたしたち大人は、どう関わりあっていくべきか、ある意味対等に、互いを尊重しながら。

(モチーフvol.181「尊重する」)

長く絶版になっていたわたしのデビュー作「蝶番」と2012年の渾身作「誰かJuneを知らないか」がこの度、幻冬舎から電子出版されました!わたしの文章面白いなと思ってくれた方はぜひそちらを読んでいただけたら嬉しいの極みでございます!