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月曜モカ子の私的モチーフ vol.187「子ども」

菅官房長官も言っていたが携帯代が高すぎて生活を圧迫、Softbankをこのままこの先何年も使い続けて良いものか迷ったので(格安simでも不便はないと三重の某ミンミンは言っていた)長らくiPhoneを使っているが、この度初めて新しい機種をAppleで予約して発売日にゲットすることをやってみた。
携帯会社の機種変じゃないので当然自分のタイミングでSimを差し替えて切り替えられる。それで昨日の深夜にそれらの作業をやってみたのだけど新しいiPhoneはちょっと大きすぎて使いづらいなあと思った。
ずっと耐え忍び6sを使っていたので、いろんなことが真っさらで最新になって嬉しいのだけど、この手のひらに収まらないサイズ感を目の当たりにし「ああもう、ジョブズはこの世にいないのだ」と痛感する。
ジョブズのファンの方なら共感してくれる人もいるのではないだろうか? 彼ってシンプル&コンパクト、そしてEasyがモットーの方だったと思うので、彼がまだ生きていたらこんなに画面を大きくゴテゴテしたサイズのみにはしなかったであろうと思い、ジョブズの不在を強く悼む。

                          
先週に引き続き、ちょっと思うことあって、それは育児のことなのだけど、世の中のお母さんたちはいつもこういう「選択肢」の連続なのだろうなあと思ったこと。

先週久しぶりにベスフレの子守があって、ひと月ぶりにベスフレと会った。言葉も話せないうちからもともと結構「話せる奴」のベスフレなので、笑、もう4歳とかになってくると普通に友達と会うような感じで子守というよりデートなのだが、妹の仕事が1時間ほどで終わるということで、その近くの駅付近で神社に行ったりお茶したりしようということになっていた。
ちょうどその日、ジャズストリートをやっていたのでお気に入りの喫茶店が満席、わたしとベスフレはその近くの静かで雰囲気のいいイタリアンカフェに入って、お茶したり絵を描いたりして過ごしていた。
今、寒暖差咳とか咳喘息がすごく流行っていて、わたしも薬を飲んでいるのだけど、ベスフレも少し咳をしていて、体調は万全ではなかった。

そんな中、咳をしたはずみに気管に何かが入ってしまったのだと思う、ベスフレが急に激しく咳こんで、目には、みるみる涙が溜まり(これ、息止まってしまうのジャナイカ!?)というような感じ、ちょっと痙攣したりもしたし、見てても不安、そこは店内でもあったので、外の空気のいいところで落ち着かせてやりたいと思い、とりあえ席を離れて連れて出ようとしたところ、ちょうど入り口のあたりで、子どもの臓器は小さいから咳き込んだ勢いで、少し前に食べたものをテロッと吐いてしまった。
                          
それでも咳は止まらないし、入り口は少し汚れたし、あらあら、という状況で、どうしよう!という感じに陥る。
しかしその時とても救われたのだけれど、従業員のお兄さんが本当に! 温かい人で、本当に嫌な顔一つせず「大丈夫ですよ!」と言って水やらゴミ袋やらお手拭きやら持ってきてくれた上に、ささっとそこを掃除してくれた。
わたしは当然、そこは飲食店の入り口でもあるわけだから「申し訳ないです、わたし拭きます!」と謝る。
けれどふと、涙目で咳き込んでいるベスフレを見たらば、
彼女は何一つ悪くないのに、自分のせいでモカちゃんは謝っている=わたしは悪いことをしたのだ、と思う可能性がある。
なのでお兄さんに謝りながらもわたしはベスフレに、
「ベスフレは何も悪くないよ、何一つ悪い事はしてないから大丈夫だからね!」と言った。
しばらくしてベスフレの咳は収まり、ベスフレ自身が尋常じゃない咳に
「・・・びっくりした」と唖然とした表情で呟いていた。

                                  こういう「瞬間瞬間での大人の対応」が、子供にとっては、強く胸に刺さる景色になり、大人まで忘れられない出来事になることがある。
大人の目線でこういう案件を「でもお店には事実迷惑をかけたんだから子供も謝るので当然でしょ」とか言う人がいるのだけど、それはいろんな事が全部終わってお会計して帰るとき、とかそういうときにきちんと話してからやるのだと良いのだけど、
瞬発的に動いていく時間の中で起こった出来事って、理屈ではなく子供の心に焼き付いてしまうから難しい。
現に江國香織さんもエッセイの中で「昔父がトイレの電気を消したら、そんなところに手が届いたのかすごいすごいと褒めて抱き上げてくれたことがあって、しばらくしてまた自分は父に抱いて欲しいと思い、スイッチを消した。そしたら父は”そんなことでわざわざ呼ぶな”と言い捨てて出て行ってしまった。あの時のスイッチの冷たさ、水をかけられたような感じがしたことなど今も強く忘れられない」と書いている。
                          
わたしには子供はいないけど3人の妹がいるので、その妹1人1人に、一つくらいは過去に戻れたらやり直したいと思うような「あのときこうするべきだった」という、そのときの瞬発的な選択に対する後悔を持っている。しかしその後悔ってもう本当に意味がないというか、今更謝ってもその妹すらも、もはや子育てをしている親だったりするし、行き場のない一方通行な後悔だけが浮遊し、それを抱いて生きていっている、それが現状である。

なのでことベスフレに関しては、絶対そうならないように気をつけているのだけど、でも例えば、あのとき
「店員さんがすごく迷惑そうな顔をしてたら?」
「あのときお会計して出て行ったお客さんに嫌味の一つも言われたら?」
                          
当然それでもベスフレに当たることはないのだけど、
きっと自分はすごく嫌な思いをするだろう。
そんな時に日本のママたちを想った。
自分、というか、日々そういう体験をしながらお母さんたちは社会の中で子育てをしているのだろう。社会に対してそれなりの礼儀を尽くしながら、ときに理不尽や矛盾や葛藤の中で怒ったり悔しがったり、不安を感じたり泣きたい気持ちになりながら、子を守っている。
だからお母さんたちってすごいなって思う。

その日街にはジャズが流れ、スーザフォンやトランペットのおじさんが練り歩き、とても朗らかな秋の午後だった。店員さんは優しくて、ベスフレはすぐ元気になり、帰りにご挨拶してカントリーマアムを貰った。
「うまい棒とカントリーマアムとどっちが好き」と聞かれて、「あたし辛いのは食べない」的な会話もいっちょまえにお兄さんとしていた。
とにかく温かい人たちがいてくれた暖かい午後に、本当に感謝したくなる、そんな夕方だった。

お兄さんのお母さんは滋賀の大津の生まれで、なぜかそこに置いてあったか唐組のチラシの出演者には「月船さらら」と滋賀の先輩の名前があり、終始和やかなムードで、わたしたちはそのお店を出ることができた。
                          
妹はまだもう少しかかるとのことで、わたしたちはマクドに場所を移して、そのカウンターで絵描きを続けた。
ベスフレそっくりの似顔絵を描くのがわたしは得意、そっくりに描いたら「わたしは睫毛がとても長いんだから足してくれる?」とクレームをつけられ、睫毛を足したら、全然似てない絵になってしまったので、もう一つそっくりな絵を描いた。そっくりすぎて妹は爆笑していたけど、睫毛がないからベスフレの気には召さなかった。

                          
ベスフレが街で咳き込んで吐く、という、チーム母たちからすると「そんな程度のこと」でいろんなことを多方面に感じて「思うとこある」とか言って月モカにしたためている、こんな軟弱さでは、わたしはやっぱりお母さんにはなれない。タフさが足りない。
なので、日本中の母たちを敬いながら、ならばいつまでも子供目線の大人でいよう、そう思った。
                          
母のように振る舞えなくとも、子どもたちを傷つけることだけは、ないように。

                     (イラスト= Miho Kingo)

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☆モチーフとは動機、理由、主題という意味のフランス語の単語です。

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