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【時雨こぼれ話⑤】 三上於菟吉と片山廣子⑴(長谷川時雨の日記より)

どうも。本当はここから、愛人の羽根田芙蓉さんに入っていこうと思っていたのだが先日upした「桃果子の時雨美人伝」のアーカイヴでは、片山廣子さんと思われる女性と三上於菟吉の浮気について触れているので、やっぱりここで片山廣子を挟みたいと思います。トップの絵は、わたしの勝手な彼女のイメージで選んだ高畠華宵(たかばたけ・かしょう)の挿絵ーー少女画報表紙/ 大正15年2月号ーーである。顔、というよりは彼女に宿る魅惑的なイメージで選んだ。
これは元々、羽根田芙蓉さんは一応一般女性なので写真がないから当時のモダンガールの絵から探そうと思って、しかし竹久夢二、小林かいち、中原淳一と考えてみたところ、健康的で若々しい羽根田さんのイメージは高畠華宵だな、と思ったことから始まっている。片山廣子は写真もあるのだけど、なんとなく同じ遊び心で絵も選んでみる。彼女もやっぱり高畠華宵のムード。
同じ遊びを時雨さんにも当てはめるなら、彼女はやっぱり当時もそう言われていたように「竹久夢二の絵から抜け出てきた」感じであろう。

さて。片山廣子(広子)さんは、翻訳家、アイルランド詩人としてのペンネームが別にあり、それは松村みね子といいます。

彼女はどちらかというと、三上於菟吉とのロマンスというよりは芥川龍之介の年上の恋人ととして噂されたお方でした。わたしには実は未完のまま止まっている時代小説「船パリ(仮)」というのがあって、何も知らないまま冒頭に、いるのかもわからない芥川龍之介の愛人の手紙というのを、当然創作で差し込んでいるのですが、まさか愛人として噂された方が実在して、その方がこうして時雨さんと繋がってくるとは、奇妙な縁を感じます。
そしてその頃イメージしていたのはわたしを愛人のままにして他の女と結婚した当時の恋人だったのですが、その彼と三上於菟吉が同い2月4日生まれという奇縁を最近知って、面白いなあ色々、と思っているところ。笑

わたしは長谷川時雨さんを長年かけて深堀りしてきましたが、片山廣子さんのことは全く存じ上げませんので、もう、下手に調べるというよりは全く存じ上げないスタンスからこれを書いていこうと思います。
それは逆に平等というか、あくまで長谷川時雨さんの世界からはこう見えていたのだということだけを書くことで、片山さんを変に知ったように書いたり分析したりしない、すなわちそれは片山さんのファンの方々へのわたしなりの礼儀です。なのでこの絵のイメージも、とても浅いところのイメージなので片山さんのファンの方々「へえこんな風に見えるのね」という軽い感じで受け止めてください。

片山さんと三上於菟吉のことに関しては、検索をかけると、片山さんをすごく慕われていた? 近藤富枝さんという92歳(ご存命のよう)のエッセイストの方が「(三上於菟吉となんて)そんなことは断じてないと憤慨されていた」という内容のブログが出てきたりする。近藤さんの親しい知り合いの方が書かれたブログです。
同性代を生きた物書きの方がおっしゃるならそうなのかなとも思えるし、
でも時雨さんの日記を読んだわたしとしては「いやでもそのことで時雨さんは毎日死にたいと思ってたんですよ」という気持ちにもなるし、
こればっかりはTwitterにも書いたけれど本当のところはわからない。

わたしは昔の言い方でいうと”銀座のカフェーの女給”をしているので、そこのママちゃんの言葉を借りるとこうなります。

「銀座っていうのは不思議なところで男と女のことばっかりは本当にわからない。デキてると思っていてもデキていない。デキてないと思っているところが意外にデキてる。こればっかりはわからないのです」(by銀座ママ)

これって意外と芸術や文学に携わる男と女の中にも言えることだとわたしは思っている。例えば劇団とかやっていると本当に家族みたいな感じになって、モノを作っている時は男女の境目もなく、稽古が終わったら誰かの家でみんなで朝まで小道具作ったりとか、誰かの家で集まって作業していたらみんな帰って男と女が2人きりになって朦朧としながら台本を書く、なんてことも結構普通にあって、絆の作り方がちょっと違う。

恋愛関係なくこの作品のことはこいつとしか分かち合えないみたいな男友達(というか同志)がいたりして、そいつを家に上げることはただ作品作りを場所を変えて続けることであり「男を家にあげた」みたいな性的なものと感覚が全然違うのであるが、当然そういう流れって本番前であればある種異様な熱量の渦中にあって、疲れてるし寝てないし飲んだら酔うし、笑、当然はずみでそういう関係になる男女もいれば、そう見えて全くそういう関係じゃない男女もいて、ほんと何が飛び出るかわからないそのカオスさはこの大正末期、昭和初期の文豪たちと前衛的な女たちの中にも等しく生まれていた雰囲気を感じるので、事実は闇の中である。

林芙美子なんかそういう流れの中から男と寝たり、くっついたり別れたりしてそれらを「放浪記」にしたためて世に出たまさにそれど真ん中の作家である。ただ長谷川時雨という人は明治女で、大正時代に流行った自由恋愛とかそういうの全く通っていない、そういうような類いの人ではなかったし、
片山廣子さんに関してはわからない。

また、三上於菟吉にはいっぱい女がいただろうになぜ片山廣子を取り上げるのか。その答えとしてわたしがあげたいのは三上於菟吉と片山廣子の関係は結構長く続いていたと思われる、ということがあるからである。
時雨さんが日記に苦しい胸の内を綴ったのは大正大震災の前年の大正11年。その後2人がどうなったかはわからないのだが、それから8年も経った昭和3年、三上於菟吉が林芙美子から「放浪記」の草稿を受け取った時、実は三上於菟吉は片山廣子と銀座でデートをしていたとある。そしてそのことを三上さんは隠したまま、出版社でたまたま見つけたんだと言って時雨さんに「放浪記」を渡した。

これってある意味、程よい距離感で長く関わり続けていた男女関係だったんじゃないかなあとわたしは思う。
わたしには昔、そういう距離感の同志的な男性がわりといた。その関係性がどういうものかというと「共犯関係」である。その男の人に対して自分は強く恋してるわけじゃないし、相手の恋愛を邪魔したいわけじゃない。自分も他に愛している人はいる。
でもなんというかこう、強く重なる一点があって、そこをシェアしているという意味では他の男とは違っていて、つまり長い関係の中で(仮に8年とかあれば)基本的には気の合う同志で全く肉体とか求めてないんだけどその長い歴史の中では一時的に密に、または数年に1回とかの割合でアクシデント的に体を重ねたりは、あったりする。わたしにはそういう実体験があるので、いろんな資料を読んで思ったのは、三上於菟吉と片山廣子の間にあったのってそういう「共犯関係」かなあと考えた。2人がシェアしていたものは、性的な艶、だったように思える。

とりあえずこの「こぼれ話」は事実か事実じゃないかはわからないけどわたしはこう思ったよ、ということを素直に書きたいのでそうする。
そしてこれもあまり資料には書かれていないけれど、時雨さんはわたし、性的には淡白な人だったように思ってる。でもそれってただでさえ14歳も歳が離れている若い夫の三上さんにしてみたら、ジレンマがあるというか、こう、自分を受け止めてもらえない寂しさやフラストレーションがあったんじゃないかなと思う。
そしてその欲求は「若い女を抱きたい」「ただ女を抱きたい」というものではなくって素直に性欲を含むシンプルな愛情表現を受け止めた上で肉体的にも、三上さんは受け止めて欲しかったんじゃないかなとわたしは思う。だって片山廣子は長谷川時雨よりも歳が1つ上だから。ただ女を抱きたいのであれば片山さんでなくてもよかったのではないか。

これは時雨さんが三上さんの部屋を片付けている時の日記。
日付は大正11年7月7日。

...「熱風」の原稿は出来ていたので、入り用なもの揃へ、あとのものを 紙屑かごへ入れながら、例によって、どんな風に書かれたものが 裂き捨てられるかと読んでみたりもした。何心なく1枚をとると不快なものが手についた。ーわたしは不思議な憎厭と、その不健康な顔色ー外出すればはうずがなく 出なければ 座ったままで暮らす 若い男の 病的な いやらしさに眉をしかめた。 (「文学者の日記8」より)

本編では書かなかったのだが、この日記の描写では”不快なもの”が、不快な文章、ではなく、もっと物理的に男の精液と読めるような流れになっている。時雨さんは<それもこれも性の問題においてわたしと彼の間に不自然がある>と書いていた。

不快なもののこびりついた原稿(抹消線のち)手紙にはなんと書かれてあつたか! それは 例の わたしを喜ばせない あの小さな上眼で 人を見る チヂれ毛のホンヤク夫人へのラブレターである。
それには鶴見に行きがけに 立ち寄るゆゑ 一目でも会ってください 立話でもよいが なる可くならば 総持寺で 落合ひたい(うんぬん中略)...嫌味なことで埋められていた。去年の春 鶴見にゐた時分も 大森へ訪ねたり 甘ったるい手紙のやり取りをしたりしてゐた。女の方の手紙はわざと大塚の方の宛書きできてゐたりした.....(中略)お互いにおもちゃにしあうような 顔をしあって お互いに 変態性欲を ほしいまゝにしてゐる。ツバキが出る。(「文学者の日記8」 より)

この「文学者の日記」という本は、刊行されているから本になっているけれど、元々は時雨さんの死後、遺品の中から出てきた日記である。
つまりここに書かれていることは「誰にも読まれないことが前提」のものであって、だからこそ嘘や装飾はないように思う。同時に、日記という閉鎖的な空間独特のエモーショナルやヒステリーのようなものも、そこには在るとわたしは思う。(つまり思い込みとかも)

わたしが時雨さんの日記から感じ取ったのは男性の性欲に対する極度な侮蔑。あと拒否反応。それがつまり同じような性生活を営むーー変態性欲をほしいまゝーーにする、夫の相手をつとめている、上眼づかいのホンヤク夫人にも向けられている。
(このホンヤク夫人は片山廣子です、という記述をわたしは確かに文献で確かめてから「時雨美人伝第5回”ルンペンの日記”」を刷ってもらっているのだけどその文献が現在見つからない。尾形明子さんか岩崎邦枝さんが書かれた著書だと思います、見つかり次第記述しますね)

この日記が書かれた頃、おそらく時雨さんと三上さんの間には性生活がなかったのだと思う。またさらに踏み込んで書いてみると、これはわたしの予想だけれども、三上さんの性的なタフさを鑑みると時雨さんの方で拒んだことが何度かあったのではないかと、わたしには思える。それで三上さんは誘うのも嫌になったのではないか。もちろん実際はわからない。もしかしたらもはや母親のような存在になってしまった時雨さんに対して三上さんがそういう行為をできなくなっていたとも考えられなくはない。逆に時雨さんはそういう気持ちになっても明治女のアレで自分からは言えなかったのかもしれない。なんだかワイドショーまたはゴシップ記事のようなことを長々書いて申し訳ないがしかしここが解明されないと、この”極端な侮蔑”の出所もまた2種類の可能性を残したままとなってしまう。
つまり、

1. じぶんのことを女としてみていない夫がけれども性欲は持て余してそれを他に向けていることへの嫌悪。

2.じぶんに性的な欲望があまりないので、そもそもそういうものが気色悪い。

これ、1 の場合だったら感情や思い込みが先行していると思うので、もしかして片山廣子さんと三上さんの間はプラトニックなものだったのではないか、と思うし、2 の場合だったら、わたしは女だけど三上さんが少し気の毒で、そういうものを受け止めてくれる片山廣子さんの元に走ってもおかしくないのかな、という気がする。ただ、どちらにしろ、時雨さんが淡白な人であり性的に潔癖な人であったのは間違いないと思う。

(⤴︎エログロナンセンス、という時代。これはイタリア、1920年)

長谷川時雨という女性の評伝、という角度から考えた場合、わざわざ個人的な日記を引用して長々誌面に載せたり、彼女の性的な事情を書き連ねたりすることは、トータルのコンセプトから考えた場合不必要だと思った。だから本編では省いた。けれど実際のところ長期的な男女の愛を考えていくにあたって、「性」は省いては語れない課題である。
性的な不一致を抱えた夫婦や恋人同志は、モラルに従いどちらかが何か我慢をするか、何かのはずみで、それを受け入れてくれる他者を求めてしまうことがある。しかしそれは受け入れてくれたからといってその他者と人生を生きていくのかといったらそれはまた全然違う問題であったりする。
今回はモチーフを片山廣子としているが、モチーフとは「動機」という意味であって、ちょうど噂にのぼった美女さんであったので実際はどうなのでしょうねえというトピックにのぼったけれど、深く議題にしたいのは、長期的な男女の愛、愛とは何かということである。

たとえばそこに、もしかしたら片山廣子さんと三上さんの間には何も肉体関係はなかったとしても時雨さんがそう思い込み、松井須磨子が自殺するまでは「死のう、死のう」と思っていたのであればこれはもう、片山廣子さんは全く無関係の、三上於菟吉と長谷川時雨が抱える”夫婦の問題”なのである。
(もはや片山さんは、手紙のやり取りこそしていたとはいえ巻き込まれた形と言える。)

男女または夫婦というものが、心と体の双方で繋がっているのがベストだと考えた場合、何らかの事情や時間というものによって、どちらかしかなくなって、またはどちらかがなくなったことによってもう片方も、果たして繋がっているのかどうか見えにくくなった時、それでもなおふたりを繋ぎとめるものって、実際何なんだろう。

わたしはかつて、どちらかというと愛人ポジションの女であった。
どうも男をムラっとさせる何かが自分の中にあったようで、男の人たちは割とすぐに、いつでもわたしと寝たいようであった。
とはいえそれなりの年齢にはなっていたので相手の男も、肉体を重ねる相手に心も求めていたりもするので、ただヤレたらいいわけじゃない。話もできるし、割とイイ奴で、笑、物分りが良くあと腐れのないわたしは、肉欲愛人にはもってこいのようであった。けれどわたしを肉欲愛人に希望している男の中でわたしを本命にしたいと申し出てきた男はひとりもいなかった。
それとこれは完全に別なようであった。

わたしは男の心をつかむことはできなかったようである。というか男が自分の人生に寄り添ってもらいたいと思う女ではなかったみたいである。ほんの1部分、つかの間の蜃気楼的な、現実の忘却としては適役というか良かったみたいだけれど、その人たちの本当の人生に、わたしの名前を追加する選択はなかった。ここに男性の矛盾があって男性作家は前衛的な女性作家の作品を高く評価し応援しつつも自分の女や奥方にはノーサンキューという人が多かった。笑。

夏目漱石は「うちに来る女流作家のようになられちゃかなわない」と、娘たちに小説を読むことを禁じていた。女人芸術の編集室(三上於菟吉の自宅でもある)に出入りする男性作家たちも、女性陣の頑張りを称えつつも、こう情念と生の女の脂の臭いが漂う、前衛の気迫がムンムンとした左内町の編集室よりも、違うタイプのいい匂い、白粉と香水の匂いの漂う、カフェーや、芸妓のいる座敷にいた方が心地がよかったようである。(ここで前回の菅原さんが書いた、三上さんがほぼ自宅にいない理由と気持ちにつながっていく 笑 )

つまりその逆のパターンもあって、わたしを肉欲愛人にする男はわたしを本命にしたくないのである。つまりはわたしという素性を知っているから、本命にするイメージをした場合、他所の男の肉欲愛人になる可能性もこの女はあるわけだから、やっぱりノーサンキューなのである。笑。

その人たちのことは、わたし自身も肉欲愛人として扱っていたので、わたしがそこで傷つくことはなかったのだが、同時に、愛した人とは体を重ねることができないという事態も長く続いた。なのでわたしは、愛している人とは心で繋がり、肉体的には肉欲愛人に委ねる、という、まるで三上於菟吉のような日々を送っていた時代があるのである。

その観点から言うと、片山廣子さんに対しての三上於菟吉の想いというのは、そこまでディープなものではなかったのではなかったのだろうか、とわたしは考える。片山廣子さんも夫を亡くし、亡くなった夫を愛してはいるけれどまた日々の中の埋まらなさを抱えていて、そこいらのところで何か二人は共有できるものがあったのではないか。

今日、自分のことを語ったのは、以上の理由からわたしは個人的には片山廣子と三上於菟吉は肉欲愛人改め「慈しみの重なり」があったのではないかと思うからである。大きく括ればそれも愛なのかもしれないけど、どちらかというと情であり、いたわり、である。実は変態性欲とは根本的に、異なる。

それは片山さんがどんな人とかじゃなくて、人はじぶんの歩いてきた道や体験をベースに人はものを考える生き物だからわたしはそう考えたということなのである。何度もお伝えしますがわたしは片山さんのことは知らないからわからない。これはもしわたしが片山さんの立場だったら、こうかなあという、私的予測であり、片山さんはこうだったのではないかという予測ではない。

その点から言うと時雨さんの妻としての苦しみは、実はわたしは本当のところはわからない。なぜならわたしは性的に淡白じゃないし、いつも愛人ポジであったので誰かと長く暮らし、その中で性生活がやせ細っていくという経験をしたことがないからである。わたしの立場から見ると、妻または同棲中の恋人とはそういうことをしていないと言われても信じられない、一緒に住んでいるんだから絶対するでしょうと考えてしまうわけで、でも実は、もしかしたらしてなかったのかもしれない。だから結局は事実よりも、これって本当に当人同士である男女間の信頼の話なのである。だからこそわたしは時雨さんの気持ちに寄り添いながら丁寧に書きたいと思ったし、それは時雨さんがその時期三上さんからの「愛情を感じられないよ」って時期だったんだろうなあと思っている。

あの徹夜の夜、わたしが有楽座へいったあとで岡田が夏洋服を持ってきた。(鶴見に行くだけに作られた品である)その箱を枕にして彼は考へてゐたが、あの折、あの洋服を着て行く日の打ち合わせの手紙を書くことについて考へてゐたのかと思ふと、わたしの鼻のあたまのくささは いつまでたっても とれない。厭なこころ持ちだ。(「文学者の日記」より)

この時雨さんの日記は文学的にとても秀逸で、こういうものをもっと赤裸々に書いていたら彼女はもっと作家として名を遺していたのかもとも思う。
この日記では重低音として「こびりついた不快なもの」というものが流れていて、それに対して具体的な言及をしてはいないものの、青白い性欲とか、鼻のあたまのくささはとれない、であるとか、夏の夜の締め切った部屋、など、いかにもそれって精液であって、手にそれがついて、嫌悪感とともにその青くささがとれないのじゃないか? という風に文字の香りで感じさせるあたりは本当に見事である。わたしは作家だからどうしてもここに言及せずにいられなかった。しかし時雨さんはその才能を秘めたるままにその生涯を閉じた、これもまた「赤裸々な描写は三上が嫌がる」からであろう。
どれだけ忸怩たる思いをしても、夫より前に出ようとしなかった、やはり芸術家というよりは妻として生きた女性である。
なのに抑えても溢れてしまう時雨さんの才能が三上さんを苦しめてしまったことは、とてもはがゆい。


毎回レビューを寄せてくれているラズベリーさんは時雨さんの気持ちがとてもよくわかるようであったので、なるほどという妻視点の意見を書いてくださった。だからこそ貴重なレビューだと思ってアーカイヴの末尾にリンクを貼った。

(⤴︎三上於菟吉にまつわるトピックにこの写真が本当にフィットするので何度も再利用。笑)

今日はまあなんかダラダラと、主題なんだかちょい逸れなんだかわからない感じ長くなりましたが、お付き合いくださった皆様ありがとう。
こういう「ああでもないこうでもない」というグタグタした感じもやりたかったので、今日はこれで満足しています。
いつも何か鋭く切り込みハッとさせるオチをつくらなくてもいいんじゃないかと。笑。

そんなわけで片山廣子さんの回は、次回、昭和3年「放浪記」が発掘された日に続きます〜。


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