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2. 『真夜中の灯り』

時刻はとっくの前に24時を回った。部屋で音を発するものは、俺が叩いているキーボードと、不規則に明滅する蛍光灯だけだ。
 
「一ノ瀬。進捗は?」
 
突然、背後から声を掛けられる。
 
「あ、志村さん。お疲れ様です」
 
彼女は気だるげな視線をこちらに投げ、缶コーヒーを一本こちらに差し出していた。
 
「ありがとうございます。進捗は…良くはないですかねぇ」
 
コーヒーを受け取り、言葉を返す。
 
「締め切りは割と先だが、早めに出せるようにな」
 
「そうですねぇ」
 
俺が勤めているのは、地元の小さな出版社。入社して一年半。指導役として付いてくれた志村さんのおかげもあって、そこそこ実績も挙げているつもりだ。
 
「志村さんはどうです?」
 
「私か?見ればわかるだろう?」
 
目元には、くっきりと黒いクマが刻まれていた。
 
「…いつも通りですね」
 
「まったくだ。私もやりたくてやっている訳じゃないんだがな。まあ、良いや。ちょっと付き合え」
 
志村さんは返事も待たずに歩き出す。どうせ喫煙室だろう。
 
嘆息してPCを閉じ、机から立ち上がった。
 
「一ノ瀬。こっち」
 
案の定、喫煙室で煙草を吹かしている。
 
「相変わらず変な匂いの煙草ですね」
 
うるさい奴だな、と言わんばかりの鋭い視線を投げかけられる。胸ポケットからは安っぽいフォントで「中南海」の三文字があしらわれた箱が見えた。
 
「俺、今煙草持ってませんよ?」
 
「別に吸わなくてもいいよ。話し相手が欲しいだけ。それで――」
 
暫く談笑する。とりとめのない会話ばかりだったが、不思議と気分が安らいだ。
 
「じゃ、引き続き頑張れよ」
 
一通り喋り終えると、志村さんが立ち上がった。
 
「はい。 …志村さんは、あんまり無理しちゃだめですよ」
 
彼女は気だるげに手をひらひらと振り、喫煙室から去っていった。

 
 
時刻は深夜三時。さすがに連日の残業は、意識が朦朧としてくる。襲ってくる睡魔に耐えながら、俺は中々進まない原稿と格闘していた。
 
ふと、灰皿に置いたウェストの火が消えている事に気が付く。
 
本来は喫煙室で吸わなければならないのだが、あって無いような決まりだ。
灰皿から摘まみ上げ、火を点けなおそうとした。しかし、ライターの火が点かない。
 
「まだやっているのか?一ノ瀬。何だ火が欲しいのか?点けてやるからこっちを向け」
 
志村さんが話かけてきた。
 
「あ、志村さん。ありがとうございm」
 
振り返った瞬間。目の前に彼女の顔があった。
 
更にぐっと距離を縮められ、口元の煙草が触れ合う。
 
ゆっくりと、火が移っていく。
 
ジッと見つめられて、動くことが出来ない。
 
「――ッ。ゲホッ!ゴホ」
 
煙を吸い込みすぎてしまい、思い切り咳き込んだ。
 
「ど、どうしたんですか?いきなり…」
 
「困っている部下を見かけてな。だから親切な私は火を点けてやろうと思った。それだけの事だ」
 
何故か後ろを向いて、訳の分からない事を言う彼女を見ながら、俺は未だ動悸の収まらない心臓を落ち着かせようと躍起になっていた。
 
「…今日はもう休め。明日私も手伝ってやるから」
 
一方的にそう言い残し、志村さんは足早に去っていった。
 
(何だったんだ?)
 
だが、今日はもう仕事に集中できそうにない。志村さんの言うとおりにしよう。
 
そう考えながら咥えっぱなしだった煙草を一度、深く吸い込んだ。心なしかあの、変な煙草の匂いがしたような気がした。

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