下着界のジキルとハイド
こんにちは、腎炎に見舞われた妻の看病に勤しむ男もっちゃんです。
菌をやっつけるために、たくさん水分をとって、発汗をうながしているので、洗濯物の量が半端なく、35年の人生で初めてこんなにたくさん女性の下着を「洗って乾かして畳んで」を繰り返しています。
noteを更新している時点で、勤しんでないやんけ!とツッコミを食らいそうですが、現在、ランドリー中です。
洗濯が乾くまでの30分の使い方をどうするか、この3日間の看病の中で得た気づきをこちらに認めることを選択した次第でございます。(実際書くのに2時間くらいかかっちゃったことは内緒)
「ジキルとハイド」を読んで
さて、本日20:00より例の読書会が行われます。
今回のテーマは「ジキルとハイド」
前回の「老人と海」と同様、ロングセラーの一冊です。
ロンドンの高名な紳士、ジキル博士の家にある時からハイドという男が出入りし始めた。彼は肌の青白い小男で不愉快な笑みをたたえ、人にかつてない嫌悪、さらには恐怖を抱かせるうえ、ついに殺人事件まで起こしてしまう。しかし、実はジキルが薬物によって邪悪なハイドへと姿を変えていたのだった……。
人間の心に潜む善と悪の葛藤を描き、二重人格の代名詞としても名高い怪奇小説。(裏表紙より)
善と悪というとても分かりやすいテーマなので、参加者がどのようにこの善と悪を捉え、人生観と合わせながら語られるのか、本当に楽しみです。
私の感想はと言うと、
① やっぱり世間体と子育ての問題かい!!
②ジキル博士もニュートン博士もすごいなぁ!!
③ジキル博士の気持ちは日本人に理解できるのだろうか
です。一つずつ説明していきます。
① やっぱり世間体と子育ての問題かい!!
このジキルという男は、裕福な家庭に生まれ、才能にも恵まれ、生まれつき勤勉で賢く、善良な人々に尊敬されたいと思いながら育ち、「いい子」を生きることを愉しみながら生きていきます。
生まれた時から、親から「善」という名の「理性」を教え込まれ、それが善であると信じながら、育ってきたのです。
これは現代社会にも言えるもので、皆、世間体を気にして、小さい頃から子どもを「お行儀良く」「常識的に」育てようとします。
それ自体は悪いことではありませんが、善とは何かを間違えると、ハイドが生まれてしまいます。
子どもの「虫を踏んづけたい」「何かを壊したい」などの破壊的な欲求は抑え込まれがちです。
例えば「虫を殺す」行為を見て、このまま殺すことに快感を得る人間になったらどうしようと、心配し、止めるのですが、子どもはそういった経験を通して死と向き合うことで、自分の中の感情や感覚、死生観を築いていきます。
子どもはこの世にあるものを信じきる能力を持っていて、常に心が開かれています。だからこそ、一番身近な親からの影響は良くも悪くもとても受けやすいのです。
自分の感情や感覚も「間違っている」と言われれば、それを信じ、自分の中にその感情や感覚を隠そうとします。
大人は限定された時間の中に生きるのに対して、子どもは「永遠性の中に生きる」とも表現しますが、子どもにとっての永遠性とは本物の体験や本物に触れることです。
虫という本物に触れ、その美しさを感じ、踏んだらどうなるのかという欲求のもと行動し、虫の死に触れる、悲しみと同時に終わりがあるからこその美しさを知り、これからもあってほしいという願いが芽生え、自分をつくっていきます。
「善」とは本来「損得勘定(感情)なしにこの世にあってほしい、これからもずっと」という思いです。
そのことを知っていれば、間違った「善」を押し付けることなく、本人から湧き出る「善」を育むことができるのす。
子どもが本物を体験した時に、その時の気持ちを受け入れてあげるだけ、一緒に味わってあげるだけで良いのです。
この知識は何百年も前からわかっていることなのに、それが世間体という名の善に隠されているというのは、皮肉なことだなぁと感じます。
②ジキル博士もニュートン博士もすごいなぁ!!
りんごが落ちるのを見て、万有引力の法則を発見したニュートンと同様、ジキル博士もすごい。
ジキル博士がすごいというよりは、この作者がすごいのですが!
体について、「非物質的なゆらめきのようなもの、霧のような一時的なもの」ということにひらめいた。
そのひらめきから、あの薬を生み出すのですが、読んで字のごとくひらめいたとしてもすごいし、もともとこの発想を知っていて、それを物語の大事な部分に使うというのもすごい。
いずれにせよ世紀の大発見レベルですね。
長く読み親しまれる理由も頷けました。それが理由かは分かりませんが、すごいことだと感じました。
そんなことファンタジーの世界にはいくらでもあるじゃん!!と言われそうですが、それもひっくるめてすごいよねと思いました。
もう少し時代背景とか、宗教観とか、人類の進化の過程とかを理解した上で読んだらさらに面白くなりそう。
舞台となったヴィクトリア王朝時代は、今の日本と重なる部分が多くありますね。
今日の読書会の参加者に変態外科医がいるので、彼の意見を聞くのが楽しみです。
③ジキル博士の気持ちは日本人に理解できるのだろうか
当時の時代背景が今の日本ともよく似ていて、世間体大国であるということは共通なのですが、薬開発して、自分の姿形変えてまで、眠らせてきた悪の自分を生かしたい。。。って!
その思いはピュアそのもので、万人が持っていそうですが、、、
善と悪という考え方に縛られすぎだし、そこまでいっちゃう?????
そこまでいっちゃうほど、自分の悪(本能)を表現することがNGとされている時代だったということでしょうか。
小説の中にもあるのですが、「二面性があるということが不完全である」というような考えが根本にあるからかなぁと思いました。
一神教の国と多神教の国という違いもありそうですね。
日本は世界で唯一と言っていいほど、神道と仏教が共存している「二つで一つ」を表現している国です。
陰陽の考えもそうですね。
生まれた時から、その精神を受け継いでいる日本人には到達できない悩みなのではないかと思ってしまいました。
でも、それすらも思い込みだし、人の悩みの大きさは自分の中では常に世界最大なわけで、それを共有することで、他を知り、さらに己を知るということにつながるわけですね。
日本人に理解できるかどうかなんていうのはつまらない感想でした、はい。
余談ですが、この高度経済成長の時代の友情のあり方は素敵ですよね。
ジキルとアタスンやジキルとラニヨン、アタスンとエンフィールドなどなどとても紳士的な関係だなぁと感じました。
大正や昭和時代のそれにも同じように感じるものがありますが、お互いの自立を尊重しながら時にはしっかり本音を伝え、ちょうど良い距離を保った関係。見習いたいです。
下着界のジキルとハイド
冒頭にも述べたように、この数日間妻の下着を洗って干して畳む日々。
その中で悩ますのが、「ブラトップ」という存在です。
どう畳んでもきれいに畳めないのです。
妻の看病をしながら料理も掃除も洗濯も完璧にこなす主夫王にオレはなる!という天命に意気込んでいる私にとって、唯一の悩みです。
女性にとっては、革新的な必須アイテムのはずですが、私にとっては、その完璧さを揺るがすほどの大いなる存在なのです。
完璧な主夫である私ジキルにとって、このブラトップをどうにかしたいと思っている私はハイドなのか。
楽に美しく見せるという善のために作られたブラトップでさえ、上手に畳めないという悪を持っている。
何気ない日常の中に「ジキルとハイド」を探してみましたが、案の定うまくいきませんでした。
「ジキルとハイド」も「ブラトップ」も時代が生み出した作品ということには変わりありません。
そんな時代を作り上げてきた人々に想いを馳せる勤労感謝な祝日、皆様いかがお過ごしでしょうか?
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