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福島でゴドーを待ちながら<ドキュメント>

このテキストは、私が主宰する演劇カンパニー「かもめマシーン」が、2011年に上演した「福島でゴドーを待ちながら」という作品の背景や制作過程を記したドキュメント、あるいはルポタージュです。上演の様子を収めた動画はYouTubeに掲載しています。

この作品は、性質上「再演」こそ行っていませんが、ローマ市演劇記念館や早稲田大学演劇博物館などで記録が展示され、国内外の論文や文献でも取り上げられました。演劇における「観客」という存在を、「海外の人間、もしくは10年以上後の日本人」と規定したこの作品のコンセプトは、一応の成功を見たようです。

さて、2020年4月現在、新型コロナウィルスという危機に見舞われたことをきっかけに、多くの劇場が閉鎖に追い込まれ、アーティストたちが新たな形の演劇を模索しています。「LiveCam Performance」や「オンライン演劇」と名付けられた動きが、世界中の多くの劇場や劇団によって企画されている状況です。

「戦争状態」とも比喩されるこの疫病は、東日本大震災がそうであったように、この先、演劇や芸術のあり方を大きく変えていくでしょう。僕は、この作品を創作した後にも、その状況や感覚をテーマに取った作品をいくつか発表し、その延長線上で『俺が代』という憲法を使った作品をつくり、サミュエル・ベケットの『しあわせな日々』という作品を演出しました。そこを貫いているのは、本稿でも言及している「公共」という言葉に対する戸惑いであり、その戸惑いは2020年代となった今でも変わることはありません。

では、現在の状況から、この社会は、あるいはアーティストたちは何を掴み取ることができるのでしょうか? 

「演劇はオンラインになる!」なんて勇み足にならなくても大丈夫。表層的な形式に留まらず、我々はこの先、とても長い時間をかけてこの状況が生み出したものに、そして、演劇や芸術、あるいは表現と呼ばれるものが持ち得る可能性に向き合っていくことになります。その先にあるのは、きっと、今と変わらない「わからなさ」でしょう。

「わからない」という軟弱地盤の上に、いくつもの「わかった」という錯覚を積み上げることによって、この世界はかろうじて成り立っています。「危機」を生き残ってしまった私たちに、ひとつだけ恵みが与えられるのだとしたら、それは、私たちをこの根本的な「わからなさ」に直面させてくれることです。

世界はわからない。

これを、今ではあまり使われなくなった古い言葉で言い換えると「世界は美しい」となります。

2020年4月20日

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はじめに


 2011年3月11日を境に「私は何も変わっていない」という人がいるならば、それは嘘、もしくは強がりだと思っている。M9の揺れと、大津波、そして原子力発電所の事故。直接的に関与していないとしても、あの報道やそれによって変わっていく人々を見れば、誰だって平気ではいられないはずだ。人間はそこまで強くないし、想像力が豊かなわけでもない。
 僕自身はといえば、すっかりと変わってしまった。震災が起きる前は、なんとなく東京にずっと住み続けると思っていたものの、もし子供を育てるのだとしたら、ここじゃないのではないかと思うようになったし、生鮮食品を買うときは、少なくとも産地はチェックするようになった。自分の持っているお金が、あたかも投票権のような感覚になり、どこに/何に使うかについて、少しだけ敏感になった。社会についても、より具体的に考えるようになってしまった。政治的な意図を含んだ公演を行うようになった。
 2011年8月6日、かもめマシーンでは、福島県広野町の国道6号線路上にて、『ゴドーを待ちながら』の公演を行った。
 とはいえ、観客はわずか1名しかいない。
 もちろん、これは想定していたことだったので、特に問題はない(むしろ、1名見てくれたことに、僕はひどく驚いている)。芝居の幕は無事に閉じた。
 目の前に観客がいることは、全く想定していない。だから、「これは演劇ではない」と言われるかもしれない。しかし、だ。演技をすることやそれを見せることだけが上演なのだろうか。そこにしか演劇の価値はないのだろうか。僕はそこに人がいて、演技を行なっている。そして、そこから何かが発信されている、そのことが演劇なのではないかと思っている。この公演に至るまでの過程すらもまた、公演の一環なのではないか。例えば、美術館に置かれる「泉」と題された便器を見たところでどうしようもなく、そのコンセプトに価値があるように、必ずしも狭義の「上演」だけが演劇の価値ではないのではないか。その意味で、この冊子もまた「演劇」の一部だと考えている。
 震災は、ほとんど純粋な絶望をもたらし、僕らが住む時代は「戦後」から「震災後」へと変わってしまった。だからこそ、僕らは新たな時代に向けての表現を生み出さなきゃならないと思っているし、現状、そこにしか希望を感じていない。そのためには、演劇というフォーマットそのものに対して疑問を提示し続けなければならないし、僕ら自身がこの状況に対応していかなければならない。だから、ポジティブに、軽口も叩きながら、ゆっくりと、この時代について考えている。


かもめマシーン主宰
萩原雄太
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  国道6号線は東京では水戸街道という名前でも呼ばれており、かつては徳川御三家として栄えた水戸藩の参勤交代のための道路となっていた。
 現在ではもちろんその面影は残されていない。日本橋を起点とした道路は、北東方面に進み、松戸や柏などの郊外都市を経て茨城県に入る。取手の工場地帯を抜けると、だんだんと牧歌的な田園風景や雑木林などが多くなり、土浦、水戸といった市街地を通り過ぎる。さらに東海村を越え、右手に太平洋を望みながら日立、高萩などを通過すると、福島県いわき市へとたどり着く。
 その道路は、生活の足としても、物流の基幹道路としても、地元暴走族たちによる独りよがりの独演会の舞台としても、なくてはならないものだ。
 3月11日以降、僕は数多くの新たな言葉を覚えた。「除染」「ミリシーベルト」「セシウム」「防護服」、聞きなれないそれらの単語とともに、さまざまな街の名前も覚えた。陸前高田市、釜石市、名取市、塩釜市、南相馬市、飯舘村、双葉町……。以前からそこにあるはずのそれらの市町村の名前を僕は知らなかった。だから、とても自己中心的な言い方になるが、僕にとってはそれらの街は被災地として「誕生」したことになる。
 何度か訪れたことがあるため、いわきまでは2011年2月も存在していた。常磐ハワイアンセンター(子供の頃に訪れた時は、まだハワイアンズという名前ではなかった)や、山海塾の『UNETSU』を見に行った記憶はあるものの、概してほとんどイメージのないありふれた地方都市の名前に過ぎなかった。ただ、小名浜で食べた魚が美味しかった。
 国道6号線は、いわきを越えると、広野町、双葉町、大熊町などの双葉郡を経て、南相馬市に入り、さらに、宮城県に入ると山元町や名取市などを越え、仙台市を終着点とする。
 いわき市の、その先に「土地」があるとは思ってもいなかった。もちろん、地図を見渡せば、そこに陸地があることはわかる。しかし、そこに名前のついた土地があり、そこで生活を送る人がいるという事実を実感することができなかった。「原発銀座」と呼ばれる原発密集地帯があることは知識としては知っていたものの、それは、「土地」の上には存在していなかったのだ。あまつさえ、国道6号線が、そんな新たに誕生した土地にも通じているとは夢にも思っていなかった。
 国道6号線は、車が時速80km以上で駆け抜けるのに比較して、その舗装はあまりにも狭い。茨城県水戸市出身の僕は、それを通学路として使っていた。1メートルあまりだろうか、子供が3列になったらいっぱいの、狭く汚い歩道が通学路を通りながら、毎朝「東京まで100km」という看板を眺めていた。わずか100kmではあるものの、その距離は、ある断絶を植えつけさせるのに十分な距離だった。その断絶を埋められるはずと、盲信した数人の同級生は、(80年代生まれにも関わらず!)夜中に自転車に乗って家出をした。しかし、飽きたのか捕まったのか怖くなったのか何なのか、東京までたどり着いたという人間を、僕は知らない。それは、物理的な100kmとしての距離ではなく、ある断絶が含まれている。常磐線の「荒川沖」という特急も止まらないようなマイナーな駅で通り魔殺人を起こした金川真大が、秋葉原へ行くどころか千葉にすらも踏み入れられなかったことはその証左になるだろうか。東京-大阪間が300kmだからといって、東京-福岡間が500kmであっても、この100kmに比べれば、全く造作のない距離だ。家出少年たちは、そうしてまた自らの家に帰っていった。彼らは断絶を軽く見すぎていたのだ。もしも彼らが国道6号線を北に向かえば、そのささやかな逃避行は成功したのかもしれないが、もちろん、そんな場所に意味はない。
 福島第一原発から半径20km圏内は。警戒区域に指定され、立ち入りが禁止されていた。その周囲も緊急時避難準備区域に指定され、不要不急の立ち入りをしないようにという勧告がなされている。
 けれども、どうもそこには国道6号線が通っているらしい。 

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