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「自分は●●だ」という表現の功罪

ある人に言われた。

「あなたって薄情な人ね」

僕は少しむっとした。なぜなら、自分が薄情な人間であることを認めたくなかったからだ。

「私は●●である」「あなたは●●だ」

こうした表現には功罪があると思っている。功罪とは、良い面と悪い面があるということ。

良い面は、セルフイメージを刷り込むときに使える。

「私はデンターテイナーである」というセルフイメージを持っている人は、いついかなるときでもそのような振る舞いをする(ように心がけが生まれる)。

一方、悪い面は、それ(セルフイメージ)がマイナスに作用するとき。

「お前はダメ人間だ」と言われ続けた人は、「自分はダメな人間だ」と思い込む。そしていついかなるときでもそのような振る舞いをする(無意識にダメ人間であろうとする)。

つまり、良い面で「私は●●である」「あなたは●●だ」を活用できるのなら問題ない。しかし悪い面で使われると立ち直るまでに相当な時間がかかる。

「あなたって薄情な人ね」

これは良い面だろうか。それとも悪い面だろうか。一般的に言えば悪い面だと捉える人が多いかもしれない。現に自分もむっとしたということは、悪い面だと捉えていたはずだ。

しかし、気づいた。前々から感じていた、自分の薄情な側面。この間まで仲良くしていた人と、ちょっとしたすれ違いがあると一気に冷める。攻撃に出ることはないが、避けようとする。

一瞬、「そうか、自分は薄情な人間なのだから、それを認めて生きよう」そう思った。しかし、そこで一歩踏みとどまった。

「ちょっと待て。このまま“自分は薄情な人間である”というセルフイメージのままでいいのか」

僕が懸念したのは、「このまま“自分は薄情な人間である”というセルフイメージを持ってしまったら、誰に対しても薄情な振る舞いをしてしまうのではないか」ということ。「私はダメ人間である」とレッテルを貼られた人が、いついかなるときでもダメ人間であるかのうような振る舞いをしてしまうように。

よく「自分のダメな部分を認めよう」と言われるけれど、ここで大切なのは「部分」ということ。「自分がダメだと認めよう」ではなく「自分にもダメな部分があることを認めよう」だ。全部でなく、あくまで一部。

悪い面を緩和するには、この方法がいい。そう思った。

つまり「私は薄情である」ではなく、「私は薄情な面も持っている」だ。

「I am」ではなく「I have」だ。

「あなたって薄情な人ね」と言われてから、自分なりに言葉を落とし込んで、そして着地をさせることにした。

「僕は薄情な面も持っている」

ようやく少しだけ、見たくなかった自分の側面と向き合うことができた。悪い面のレッテルを貼ろうとしてくれた彼女に、心から感謝を伝えたい。

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