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リグレット・ビール

三年ぶりに会う桐島はなんだか横に大きくなったように見えた。


注文を済ませて待っていると、しばらくして透き通る金色の液体の上にこんもりと密度の高い泡が山のように盛り上がったビールグラスが登場した。

思わず、うわあと歓声を上げてしまう。
居酒屋の重いジョッキのビールも、家の冷蔵庫でキンキンに冷やした缶ビールも捨てがたいけど、やっぱりこの店のグラスビールは別格だ。

対面の席に座る桐島も、こんもりと泡の盛り上がったグラスを見て、まるで子供のように目を輝かせている。

そういうところは昔から全然変わらないなと思った。

「じゃ、乾杯」

「お疲れ様」

冷たく結露したグラスをかち合わせると、チンと想像していたよりも小気味よい音が響いた。


桐島隆太とは、地元の栃木県で小学校から中学校までずっと同じクラスだった。

小学五年生くらいまでは喧嘩しながらも毎日のように一緒に遊んでいたけど、やがて思春期が訪れると共にどちらともなく周りの目を気にするようになり、次第に疎遠になっていった。

極めつけは中学二年生のある日、クラスメイトにからかわれたことが原因だったと思う。
私と桐島がずっと同じクラスなことを指摘され、まるで夫婦みたいだとクラス中からやじられた。

顔が沸騰しそうなほど熱くなったのを覚えている。
耳まで赤くなった桐島が誰があんな凶暴な女と吐き捨て、私もこっちこそあんな泣き虫ありえないと言い返した。

以来、桐島とは一切口をきかなくなった。
私が意地になって彼を避けていたように、彼も私を避けていたように思う。


彼と再会したのは、二十三歳の夏のある日だった。

東京駅構内のベーカリーで仕事終わりにパンを選んでいると、ふいに誰かの視線を感じた。
顔を上げると、目が合った若いサラリーマンが慌てて持っていたトレーをひっくり返していた。

記憶の中の姿よりも背が伸びていた。

大丈夫ですよと言う店員に、すみません買い取りますからと言いながら床に落ちたクロワッサンを拾い集める桐島は、駆け寄った私を見て額の汗を拭いながら言った。

「よ。ビールでも、飲みに行かない?」


久しぶりに口にしたこの店のビールは、思わずため息をついてしまうほど美味しかった。

鼻へ抜ける芳醇な香り、コクのある旨みと苦みに、脳の中心が痺れるようだ。

満足気にグラスを置く私を見て、相変わらずリアクションが大袈裟だよなあと桐島は笑った。

「そんなことないよ。美味しいじゃん」

「まあね。ここに来るのも久しぶりだし」

桐島は懐かしそうに店内を見渡すと、もう一度グラスを傾けた。


東京駅八重洲口の近くにあるこのビアホールを訪れたのは、実に三年ぶりだった。

二十三歳の夏、桐島と再会したときにやって来たのもこの店だった。

ビールを片手に背の高い椅子に座っていると、古い記憶がどんどん蘇ってくる。

「ね、最初に誘ってくれた時のこと覚えてる?」

「またその話? その話するのもう何度目だよ」

桐島は持っていたグラスを置くと、勘弁してくれというように苦笑した。

エプロンを付けた女性店員が、鉄板に乗ったソーセージとシーザーサラダのボウルを運んできた。

「とにかく何か言わなきゃと思って……目の前にビール酵母のパンのポップがあったから」

昔と同じように笑いながら、桐島の何かが今までと違うような気がした。


東京で再会してからというもの、私たちはたまに二人で飲みに出掛けるようになった。

それはある一時に集中するようなものではなくて、年に何回かどちらかがふと思い出したように誘いをかける、ぽつり、ぽつりとした交流だった。

ある時はビアホールのテーブルで、ある時は居酒屋の座敷で、またある時はバーのカウンターで、私たちはいつもとりとめのない話をした。

小学生の時、ゲームの勝敗から取っ組み合いの喧嘩になり先生に叱られた話。
喧嘩はいつも私が勝って桐島を泣かせていた話。
高校でそれぞれの進路が分かれた後の話。

桐島は地元の大学を卒業した後、東京でスポーツ用品の会社に就職したと語った。

申し合わせたように私たちは、中学生の関係が気まずくなった頃の話をすることはなかった。
私も桐島も、元々そんな事実はなかったように振舞っていた。

同じように、互いの恋愛事情について桐島と話したこともただの一度もなかった。

飲みの帰りはいつも店の前か最寄り駅で解散した。
お互いに、じゃあまたという簡素な挨拶だけで、次の約束を具体的に取りつけるようなこともなかった。

そんな交流がかれこれ三年程続いていた。

途切れさせたのは、私の方だった。


二十六歳の時に付き合っていた恋人は独占欲が強い人で、私が異性と連絡をとるのをひどく嫌がった。

彼に見つからないように返信することができないわけではなかったけど、なんとなく後ろめたく「近々どう?」という桐島のメッセージに既読の表示を付けたまま、結局私は返事を返さなかった。

その後、桐島から新たにメッセージが送られて来ることはなかった。

恋人と別れ、いろいろなことが自分の自由にできるようになっても、私は桐島に連絡することができなかった。

二十八歳の時、私は友人の紹介で知り合った男性と結婚した。


ソーセージはナイフを突き立てると、溢れ出した油が鉄板の上でジュワジュワと音を立てて弾けた。
香ばしいニンニクとハーブの香り、程よい塩辛さにビールがぐんぐん進む。

桐島はさっきから口数が少なくなっていた。

グラスの底に少しだけ残ったビールを飲むふりをしながら、私はグラス越しにぼやけた彼を眺めた。


三年ぶりに桐島から連絡があった時、私は素直に嬉しくなった。
返信をするとすぐに返事が返ってきた。

内容は、近々またビールでも飲みに行かないかというものだった。

私は主人に桐島のことを話した。
三つ年上の温厚な主人は、たまにはいいじゃない、楽しそうだねと言って二つ返事で送り出してくれた。


「水口にさ、ずっと言おうと思ってたことがあるんだ」

ふいに黙っていた桐島がそう切り出した。

私は空になったビールグラスを握り締めた。

桐島の言葉を聞くのが怖かった。

内容によっては、彼をひどく傷つけることになるのが恐ろしかった。

いや、違う。
いつだって私が怖いのは、自分が罪悪感に苛まれることだ。

三年前、桐島に「恋人がいる」と返事を送らなかったのも、別れた後に桐島に連絡をしなかったのも、すべて自分が一番可愛いからだった。

そして、結婚したことを未だに告げていないのも。

桐島は深く息を吸うと、ゆっくりと時間をかけて吐いた。
それはなんだか芝居がかっていて、自分の気持ちに踏ん切りをつけているように見えた。

そして言った。

「俺、今度結婚するんだ」

その言葉を聞いた時、ずっと心に刺さっていた鉄の楔が抜け落ちるような感覚がした。

気がつくと、はらはらと涙が零れ落ちていた。

「わー! 水口泣くな! やっぱり、俺のことが好きだった?」

「はぁ? 違うし。私結婚したし。てかそれ、こっちの台詞」

「え? 俺がお前? そんなことあるわけないじゃん」

失礼な台詞を吐きながらとぼけている桐島を見ていると、安堵の涙と一緒に笑いがこみ上げてきた。
私たちは顔を突き合わせて笑った。

それは私と桐島が初めてする恋の話だった。

「そうじゃなかった。最初から、そうじゃなかったんだよな、俺たち」

つぶやくように、確かめるように、桐島は言った。


子供の頃、私は桐島を恋愛対象として見ていなかった。
同じように、桐島もそうだったのだろう。

しかし、時が経ち、男女の差がはっきりしてくるにつれ、そうも言っていられなくなった。

自分たちがただの友達だと思っていても、周りの目に同じように映るとは限らない。
思春期だった私と桐島も当然のようにその波に飲み込まれていった。

大人になって再会してからは、友達の空気を守るのに必死だった。
少しでもそんな話をすれば、あっという間にバランスを失って崩れ落ちてしまいそうな、脆い縁に見えた。

結局、私は守り通すことができなかった。
一度でも桐島を異性として扱ってしまったら、もうだめだった。
もう自分が無邪気な子供でないことを思い知った。

桐島が何を考えていたのかは、分からない。


「でもさ、なんでまた連絡くれたの」

卓上に届いた新しいビールを口にしながら、私は訊ねた。

「昔みたいになりたくなかったから」

ソーセージを頬張りながら、きっぱりと桐島は答えた。
中学生の頃のことを言っているのだと分かった。

私は天井を仰いだ。

桐島は私よりもずっと勇気を持っていた。
自分の身の可愛さに連絡を絶った私と違って、彼は恐れずに、真っ直ぐに、向き合おうとしてくれていた。

桐島がもう一度繋いでくれた縁だった。

「ありがとう」

私は頭を下げると、目の前の勇気ある友人にはっきりとお礼を言った。

絶対に聞こえなかったはずはないのに、彼はそっぽを向き、それからこらえきれなかったようににやにやした。


店の外に出ると、むわっとした熱気が体中を取り囲んだ。
熱帯夜だ。
冷房で冷えた体に心地よいのは最初だけで、駅に着く頃にはもうきっと汗が滲んでいるのだろう。

「また、飲もうよ」

別れ際、桐島はそれだけ言った。
その言葉に今までとは違うニュアンスを感じて、私は頷いた。


家に帰ると、帰宅していた主人が玄関で出迎えてくれた。
何も言う前に、私はその腕の中に飛び込んだ。

「楽しかったみたいだね?」

もう一人の勇気ある人の胸に顔を埋めながら、私はその日に思いを馳せていた。


次の乾杯はいつになるだろう。
二ヶ月先か、半年先か、もしかしたらもっと先になるかもしれない。
これからは二人だけの事情ではないから。

でも、それは間違いなく今までより楽しいに決まっていた。
そんな約束が出来ることが、今、心の底から嬉しかった。

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