バス停
その日は外の世界の、すべてのコントラストがはっきりとしていた。
真っ青な空に、白い入道雲。青々と伸びる雑草、熱さを帯びたアスファルト、そこに伸びる白線、暑さでしおれかけているひまわり。
目に入るすべてのものが、鮮やかで、眩しい。
私は茶色い木のベンチに座って、目の前を時々通る新幹線を見ながら、ひとりでバスを待っていた。
忘れられない日のこと
19歳の夏だった。
髪の色はピンク、しかも紅ショウガみたいなショッキングピンク。スーパーで1000円で買ったインドパンツ、グレイッシュなミントグリーンのTシャツ、黒い帽子、紫外線アレルギーだからサングラス。
髪の色がピンクってだけで何もかもがまとまらないのに、そこに緑系統の服を持ってくるなんて!
変なの。そんなの上手にやんないと可愛いわけないじゃん!
それがかわいいとか似合っているとかおしゃれとか、何にも考えられなかった。
そんな思考回路、あの頃は生きていなかった。
その日重要なのは、バスに乗って病院へ時間通りにつくこと、先生に今の自分の状態をきちんと説明すること、薬をもらうこと、それだけだった。
服なんて涼しけりゃ何でもいい。
前の日の夜から時間を逆算して、何時に家を出ればいいか、何時のバスに乗ればいいか、全部調べていた。だって病院に遅れちゃまずいから。
私は私が計画したとおりに動けば、目的が果たせる。
バスが、来ない。
まさか私、何か間違えた?
あれちゃんと調べたのに。行っちゃったのかな。
今すぐ家に帰って自転車で行けば間に合うかな?
いや無理だよ、昨日も今日も何にも食べてないし。暑いし。
仕方なく次の時間のバスに乗った。
診療時間に間に合わないことは明白。でもバスは信号できちんと止まって、バス停で人を乗せて降ろして。あたりまえだけど。早く!早く動いて!間に合わない!
「次は芳川西です。お降りの方は・・・」
次だ。
降車ボタンを押す。
?
切符がない。乗るときにちゃんと取ったはずなのに。どうしよう、もう降りるのに、あれ?
運転手さんすみません切符なくしちゃって、すみません。
あれ、声が、あれ声が出ない。
ひとりでアワアワしている私を見て運転手さんが察してくれた。
あの時ありがとうございますって言えてたかな。私。
眩しい。バス停から病院まではまあまあ歩く。
あれ。 こんなに私はだめだっけな。
おかしいな・・・暑い。
保険証、診察券、お薬手帳、お財布。大丈夫必要なものは全部ある。じゃあ大丈夫。
病院はただでさえ混んでいるのに、ひとつひとつの診察が長引いてて、みんなこうべをたれながら待っていた。
私の順番はいつなんだろう。
ひとり、またひとりと会計を終えて帰っていく。
あれ、私はまだなのかな?
疲れたなあ何か食べたい。
何を食べればいいかもわかんないけど。
そのころには歯で何かをすりつぶす感覚がダメになっていた。
結果噛まない食べ物しか食べられない。
みかんの缶詰の汁とか、そういうの。
なんか、座ってられないな。手や足が勝手に動く。
どうしよう室内を歩き回るわけにもいかないし、どうしよう。
なんだろう、この椅子無理。
まったく落ち着かない。最悪のデザインだ。
私は椅子に座れなくて、勝手に動く手足をどうしようもできなくて、床に体育すわりをすることにした。
これなら手足が固定できる。
頭が重い・・・
今まで座っていた椅子に頭をもたれかけさせた。
他の患者さんの迷惑になると思ったのだろう、見かねた受付の人が私を別室に連れていきベッドに寝かせた。
白いなあ、病院は全部白い。綺麗だ。綺麗か?
そういえば昔テレビで見たことある。お医者さんのあの白い服が怖いって人がいて、その人のためにその病院のお医者さんたちはカラフルな院服を着てるって。
やがて診察の順番が来て、隣の先生がいる部屋に通された。
何の話をしたかなんて覚えてない。私はただ静かに俯きながら泣きながら「YES」の時だけ頭を縦に振った。
そんな診察で何かがどうにかなるわけもなかった。
なんで涙が出るんだろう、ここは待合室なんだから泣き止まなきゃ。他の人、他の人が
他の人が、なんなんだよ、ここは頭がおかしい人間が来るとこだぞ、静かに泣くくらいいいだろ。
薬は病院の隣の薬局でもらった。薬剤師さんが丁寧に飲み方や効能を説明してくれる。4.5種類、一度に飲む錠剤は10錠近く。なんだそれ、そんなに飲むのに何で治んねえんだよ、高いよ薬。
働けてないからまた仕送りお願いしないと。
何回目だろお願いすんの・・・
帰ろう、終わった。帰ろう。
外の空気はもう黄色味を帯びていて風が吹いていた。うだるような暑さの中にほんのり秋の気配。
その日の夕焼けは見事だった。
帰れる気がしない。
だってもうどっちから来たかもわからない。
右か?左だっけか?
グーグルマップ、いや分からない、頭が?動かない。
バス、きっとまたうまく乗れない。
足、もう動かない。
帰りたい。
帰れない。
どうしたらいいか分からなくなって地元にいるお姉ちゃんに電話した。
「もしもし?」
「何ぃなどうしたのいな、そんな泣いて」
「病院、来たけど帰れない」
「来た道帰ればいいに」
「分からん、いつもの病院じゃない。変わったの病院。遠いの、バスなんよ、帰れん分からんのよ帰り方が。なんでか」
「うーんタクシー呼べるか?病院の人に呼んでもらいね、それで帰りねえよ」
「いいかな、タクシーってそんなきっと安いもんやないよな、いいんかな」
「うん無事に帰れるほうが今は大事やでいいさ。お金ある?」
「たぶん」
「じゃあそれで帰りね、ごめんちょっと忙しいでいったん切るよ。帰ったら連絡してな」
「うんごめん。お母さんに言わんといてなごめん」
「うん、わかったよ。じゃあねばいばい」
「うんばいばいごめん」
タクシーは薬局の人に呼んでもらった。タクシーが来るまで薬局のソファーに横になっていた。頭が重たかった。
「佐藤1-2-13。お願いします。」
タクシーの運転手さんは話しかけてこないタイプだった。ありがたかった。
家に着くころには辺りはもう薄暗かった。
赤いテールランプ。対向車の眩しいライト。部活帰りの中学生。頼りない街灯。
アパートの階段の踊り場で蝉が死んでいた。
その日は外の世界の、すべてのコントラストがはっきりとしていた。目に映るすべてのものが色鮮やかで、空気が透明色なのがよく分かった。太陽の力で生命は生きている。それがよく分かった。
とても美しい日、夏の終わりかけだった。
そんな美しい世界で私だけ、私たった一人だけがうまくできていなかった。
そんなのは嘘だけど、そんな気持ちだった。
みんなもっとうまくやっている。
うまくってどういうことだよって、そんなの知らないけど私は確実にうまくできていない。
その日は一度も電気をつけずに、一日が終わった。
窓から入る風は心地よかった。
秋が近づいているのに、季節は進んでいくのに、
私だけ、
私だけが進めていなかった。
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