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SF、水泳少年、文真堂書店広沢店

“虐殺、器官??”

少年というのはこういう生き物だ。とかく、実物に触れたことはないけれど、エロとグロには最大の関心を持ってる生物である。私の家は群馬のかつて織物が盛んだったところにあって、今はチェーン店に支配されシャッターが閉まっている店ばかり、東京へは電車で一本いけるとはいうものの23区外である。要するに適度に田舎だったのだ。

適度に田舎な中学生がやることと言えば、部活動のスポーツである。勉強そっちのけでひたすら強く、速く、逞しくを目指す。脳筋という言葉がある。まさしくそれだ。考えることを筋肉に奪われた生き物は反射的に快楽を得られるエロとグロを喜ぶ。私ももちろんその一人であって水泳に熱心に取り組んだ。そして練習後、部室で誰が持ってきたかわからないアイドルのグラビア写真集をみては喜び、先輩に誘われてやったグラセフを楽しんでいた。

ただし、脳筋というにはそれなりに賢くはあったし、本も読んでた。練習後によく行ったのが、文真堂書店広沢店である。田舎のチェーン店のうちの一つだけれど、当時の私にはそこがすべての世界であった。

なんだか下品な話もしたが、本稿で書きたいテーマが「私とSFの出会い」なのだからやむを得ない。なぜやむを得ないのかというと、こういったディティールを書かなければ私のSFとの出会いや私のしこうを伝えることはできないからだ。なんだか論旨が混乱してきているように思えるので、「要するに」をここらへんで書いてしまうと、塩素の匂いを頭から発した水泳少年が、なんだがグロそうと思って文真堂で手に取った本が、『虐殺器官』だったのだ。

中学生時代の思い出話と考えれば何だか可愛い話である。

帯では宮部みゆきや伊坂幸太郎が絶賛していた。軽い気持ちでページを開き、1行目に目を通す。

「泥に深く穿たれたトラックの轍に、ちいさな女の子が顔を突っ込んでるのが見えた。」(★1)

このとき受けた衝撃は今も忘れない。反射的なグロしか知らなかった私にとって、こんなにも美しく、かつ惨い表現があることをはじめて知った。そしてこんな小説が何食わぬ顔でしれっと並んでいる世界の変態さにも驚愕した。

私は、聡明な少年であったが故に、伊藤作品のナイーブな語りの奥にあるテクノロジー論や社会への批判を敏に感じ取り、それが私をSFの道に――というわけではない。率直に『虐殺器官』は面白かった。とにかく水泳少年の脳を直撃した。私は他の作品はもっと面白いのではないかと思い、次の練習後また文真堂に行った。『ハーモニー』と『The Indifference Engine』を買って、案の定どちらも面白かった。最後に『屍者の帝国』を買って、それが未完の遺作であることを知った。ショックだった。しかし私は伊藤作品を読んでいるうちに、これらはどうやらSFというものらしい、と教育され、それならば他のSF作品を探してみることにした。

こうやって、私の中に「SF」という観念ができあがってゆき、最初に接触したのが『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』だった。これはSFである、と自覚して読め始めたはじめての小説だ。それと同時にこの小説が原作となった映画『ブレードランナー』も観た。この小説と映画に出会ったことが後の悪しきしこうに影響したことは言うまでもない。

要するに私は、SFにエロとグロから入ったし、伊藤計劃から大きな影響を受けた。伊藤計劃はSFについてかくいう。「きわめて下世話な世界を入り口に、創造を絶する場所へと連れて行く。そんな詐欺師のようなSFが、いま必要とされているのかもしれない。」(★2)私もそうだと思う。反射的なもので人々を釣りあげることは大事である。そしてこのことは廃れている様々なことにも言えると思っている――。

このように同意をすれば私の卑しい思い出を肯定できるだろうと考えたのだが、結局は自分の痛々しい過去をネタにしただけのような気もする。

★1 伊藤計劃(2010)『虐殺器官』早川書房 p.11 また見出し画像はアニメ映画「虐殺器官」の予告編から引用していることをここに記す。
★2 伊藤計劃「SF、中学生、郊外住宅地」p.67 伊藤計劃ら(2015)『蘇る伊藤計劃』pp.66-67 宝島社 ただし「SF、中学生、郊外住宅地」の初出は2008年8月『科学魔界』50号 タイトルでお分かりだと思いますが、この伊藤計劃のショートエッセイのオマージュです。構成や文体を一緒にしようと頑張りましたが、力及ばず。伊藤計劃の天才さを改めて実感しました。


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