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尖ると書いてむじゅんと読むようなそんな気分

「必ず僕らまた会おうね、夜に溺れましょう」

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「命を守る訓練は誰のためにあるの?」

わたし自身の問いだ。わたし自身に答えもある。自分を守るためであり、また大切な人を守るためである。わたしたちは予期せぬ出来事を正しく処理することができない。だから訓練を重ね、経験を積むのだ。学びを蓄積することに長けたわたしたちが導き出した答えは、経験を重ねるということだった。自分の経験や知識が自分を救い、人を救うのだと思う。

そんなことを考えた。

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わたしは「わたしのために」生きることができているのか?

ふと考える。

わたしは、わたしの言動にらしさがないと感じる。皆はわたしらしさをどう捉えているのか知らないけれど。くだけた人だと思うのだろうか、楽しく生きていると思うのだろうか、自由に生きていると思うのだろうか、慎重派だと思うのだろうか。

幸か不幸か、「誰かといるために」演じているわたしが圧倒的に心身を蝕んでいる。

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わたしは自身を尖っていると捉えている(いた)。世に馴染むことも自身を馴染ませることも決して得意ではないので。生涯 自分が好きな洋服だけを着ていたいし、音楽を聴いていたいし、好きなものに好きなだけ翻弄されて過ごしていたい。自分の感性を信じて死にたい。

破天荒でいたいのだ。

そんなわたしが。流行りの淡色の洋服を身に纏い、誰かの好む音楽を聴き、誰かの何かに合わせて生きている。自由の檻の中で不自由なのである。

無難に生きているのだ。

人と生きるために。

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矛盾している。わたしのために命を擦り減らした数より、他人に擦り減らした数の方が多いことは明白である。

恋人、友人、知人。わたしは自分のために尖り、あなたのために尖ることをやめる。苦痛だと思うことはないが、本質を受け止めてもらえる日は来ないものだと思う。


本質とは何か?今のわたしである。あなたの目の前にいるむじゅんだらけのわたしこそが。継ぎ接ぎだらけのわたしに、どうか怖いもの見たさで触れて。感じて。震え上がれ。

本質とは目に見えないものであり、触れることができる不安定な代物である。

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