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掌編小説『海』

 彼は毎日この海を眺める。
 ぬるい砂浜に足を着け、その下に埋まった冷たい砂の温度を足の裏から感じ取る。波に押しやられて打ち上げられている瓶や流木、それらの破片を避けながら、海を囲うように歩く。
 時折、波が足元までやってくると、その心地よさに身を震わせたりもする。

そして、彼は海の中にあるたくさんの沈んでいるものたちのことを想像する。それから、まるでそれを知っていたかのように語り出す。けれども海は返事もしなければ、彼の言うことなど分かるはずもないだろう。それでも彼は歌を口ずさむように、もう話すべきことが全て決まっているように、物語を語る。


 すると、ある小さな洞窟の中で、宝がキラキラと光っているのが見えた。見てみればその洞窟は一つや二つだけではなく幾つも連なっていて、空っぽの洞窟もあれば、何かが奥で光っているたりもする。その宝というのも、誰も見たことがないような代物で、価値など付けようもない。いつから眠っていたのだろう。この海が生まれるよりもずっと前からそこにあったのだろうか。

 だけれど、彼はそれを懐に入れたりはしない。もっと言うと、洞窟の入り口からそれを確認すると、ただ、にこりと笑うだけなのだ。それからまた、海は頷くように彼の足元に水を浸した。ひんやりとした水の感覚を味わっていると、ふと彼の足元に、カランと一つの空き缶が流れ着いてきた。彼はそれをそっと広い、不思議そうに見つめながら、その後、にやりと笑って再び地面へ戻した。


 一方、海には多くの勇敢な船や潜水艦が、その神秘の謎を解き明かそうと侵入してくる。大きなエンジンを吹き鳴らして、深さを見せない水面を大きく揺らす。またある人は、その身と手軽な装備で海に飛び込む。船も潜水艦もダイバーも、深く深く潜り、だんだんと酸素を奪われながら、時として海の底に沈むだろう。それから深海の圧力に耐えられずに息絶えてしまう。見えない海にロマンを抱き解き明かそうとする彼らはいつだって海に触れようとするが、光に照らされて輝く水面はその深ささえ見せないようにと、努めている。
 彼はそんな水面を眺めていた。波がゆるやかに揺れ、時折、中で何かが泳いでいる影が見える。けれども再び姿を消してしまう。そんな時、彼は目を瞑る。そしてもう一度、じっと見つめる。


 見えた光景は、ひとりでに、まるごと姿を消した沈没船。彼はそんな沈没船を救い上げ、船の中の全員と言葉を交わした。


それまで穏やかだった波が、一瞬強く揺れた。


 それからすぐに日は落ちはじめ、夕焼けは海の色をがらりと変化させる。その様子を見ながら彼は、砂浜に落ちている流木と波打ち際の間に、自分の指を使って一本の線を引く。波は毎度その線を覆いかき消していくが、彼は気にせず、また別のガラクタと波打ち際を繋ぐように線を引く。その繰り返しを続けていると、ふいに海は一つのガラクタごと、ごくりと飲み込んだ。ガラクタは水面の上をぷかぷかと浮いて、彼からどんどん遠ざかっていく。だけれども彼はそんなのを気にもせず、ひたすらガラクタを見つけてはその間に線を描く。
 それから彼は、あるちょっとした岩場へ登り、ポケットにはいっていたパンを小さくちぎり、海の方へヒョイと投げやった。それは彼が朝、自分は半分を食べて、その残り取っておいたものかもしれない。まるで池の鯉に餌をやるような手つきで、パンを高く投げる。もちろん、池の鯉のようにまぬけ顔をして何かが口を開けている姿は見えない。白い波や反射した水面が覗くこと遮ってしまうのである。手の中からパンがなくなると、彼は手を打ち付け、乾いた音を響かせながらくずを落とし、帰っていく。

 「ここら辺で海の近くまで行ける場所はありますか?」


 カメラを肩にかけた人が、帰っていた途中の彼に尋ねる。彼は遠く離れた海をじっとみながら、
「いいや、俺はあの海のことはあまり詳しくないんだ」
そう言って、再び歩みを進める。彼は海に毎日来ているのに、海のことをちっとも知らないらしい。いいや本当は誰よりも知っているはずなのに、彼は絶対に口をつぐむ。彼は案外寡黙なのだろうか。
 しかし海のほうだって、確かに彼を知っている。飲み込んだ彼の足の温度や、沈んだパンくずの中に。でも海だって彼のことを語ろうとはしない。海には語るべき言葉がないのである。海の底に沈んだ言葉はいつも彼が拾い上げ、返してくれるはずなのに。

 夜でもたしかに海は動いていた。水面はとても静かだが、そのすぐ下では眠れない生き物たちが泳ぎ続けていた。数百年前の船員たちや数十年前のダイバーが海の深いところで、泡をぷかぷか吐き出していた。彼らは互いに通じないはずの言葉を交わし、生きていた時と全く変わらない姿で、何かを求めていた。
 それからまた日が昇り出すと、彼はすでにそこにいた。そして同じように海や流れ着いたガラクタをじーっと確かめるように、笑っている。彼は海を眺めながら、今日も生きて行けると思うのだった。
 

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