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掌編小説-ふとん

 彼は隣で、眠っていた。


 彼が寝返りを打つと、固くて白いシーツがシャリシャリと音を立て、それは私の布団を少しだけ引っ張り、足元が、冷たい空気にさらされる。

 彼の背中は白くて、大きかった。

 布団からはみ出た背中は、柔らかい紙のようで、彼の肉体の中にある、彼の体を支え、守っている骨が薄い皮膚からうっすら浮き出て、それは寝息に合わせてわずかに動き、心地の良いリズムを奏でた。

 私はゆっくり、大切な宝物を扱うように、彼の髪を優しく優しく撫でる。 

 どうにもらならない癖っ毛で、以前に出会った老犬のダックスフンドの毛並みを思い出した。もっさりとした真っ黒な毛で、毛先がいろんな方向へピョンピョンと跳ねている。

 ここが一体どこだか、私にもわからないし、もちろん彼にもわからない。
 見渡したところ、身分を証明できるものもないし、時計すら置いていない。ただ、壁に海を映した大きな一枚の写真があるだけだ。
 ただ、彼は今無意識で、私には意識がある。それだけだ。どうにもわからない所にいて、私は起き、彼は眠っている。

 私は彼のことを知っているような気もしたが、よく知らない。だけれど、懐かしく、どこからか、愛しささえ込み上げているようでもある。


 カーテンの隙間から溢れる陽の光は、どうだろう。彼の腕の辺りをチラチラちらついて、その度に、彼の黒子が光に潰されていく。

 その光を見る限り、今は朝で、9時とか10時とかそんな辺りの朝なのだろうか。

 私は立ち上がり、少し隙間の空いたカーテンから手を差し込み、その光の幅を広げた。鋭く真っ白な視界から、だんだんと空の青に焦点が合ってくる。透明な窓には黒い格子状の線が描かれ、その外側にこことは違う世界があった。あるいは、もっと大きな世界があり、この世界も向こう側の世界に組み込まれているのかもしれない。けれど、私は“ここ”にいて、この窓を隔てた向こう側に“そちら”がある。

 部屋の方を振り向くと、彼はやはりベッドで眠っていて、しかし、私の開けたカーテンの隙間が、ちょうど彼の顔に光を当てていたので、彼の髪の毛は焼けたような茶色になり、目はしかめっ面だ。それから少しすると、布団の中に潜り込んでしまった。その様子は、いつか見たチンアナゴの生き方を思い出した。敵が来たら、自分がすっぽり隠れるくらいの穴を作って、その中に身を隠す。今の彼にとっての敵は、この眩いほどの光であったのだろう。

 その時ふと、異常なほどチンアナゴが好きな友人がいたことを思い出した。当時は、何がいいのかわからなかったが、今ならなんとなくわかるような気もする。私たちは本来的には、彼らのように自分一人だけでも、隠れられるような場所が必要で、だけど、私たちは気づいた時から、コンクリートの上を歩いてしまっている。

 カーテンの隙間をピッタリ閉じると、ここは本来、驚くほど暗い場所であるらしかった。私には暗すぎたが、彼にとっては心地良い闇なのである。私は窓際から離れ、壁を伝って、この部屋を一周しようと試みた。
 真っ暗で何も見えない部屋の中で、足元から伝わる床の冷たさと、触れている壁紙のざらざらとした肌触り、そして恐ろしいほど静かで耳鳴りがするようなほどの部屋に、彼の寝息が隠れていた。

 私はもう一度ベッドに戻り、彼と一緒の布団で眠りについた。



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