ここに、わたしは note2
note2
目を閉じた。わたしが変わる可能性。夢を見たときに、いくらかそれを持ち帰ってくる可能性。前を向いて、目を開く可能性。くり返すたび加速してゆく勾配。言葉を重ねると、言葉はつながる。パッチワークのように、文と文体が交感しはじめる。それは全て、白い場所でのできごと。さえぎるものはない。全て消えたあとのできごと。どのぐらい経ったら、この場所に慣れるの。しばらくすると、だんだんと人はここから離れ去っていく。白い景色しかないここをずっと見つめることは、あまりにもむずかしい。それで、しばらくここに立って、強い衝撃を受け取ったあと、ここで立ち止まる。それは長いか短いか、人によってちがいがある。
ある時に、我に返る。そこでようやく、白い世界の中に自分を見つけられるようになる。言葉を残す。絵を残す。語る。同じ景色を何度も写真に撮る。そうしてしばらくここで過ごしたあと、白いこと自体が、いつの間にか見えなくなって、ここを立ち去る。
書かれている。書かれている。何かが書かれている。わたしは初めて、あの場所に立ったときの日記を見返した。言葉はすきまなく敷き詰められていて、白い場所がない。視覚的にもうだめだ。わたしはいつもそうするように、ページを切り捨て、ぐしゃぐしゃにしたい衝動におそわれた。絵ならそうするけど、日記はだめだ、と思い留まった。
しかし、それはどう見ても、だめだった。先生なら、だめな絵でもひたすら描きなさい、と言うかもしれないけど。しかしわたしは、明らかに、全く別のものを描きはじめてしまっている。白いあの光を描きたいのに、文字で空間を潰してしまっている。別の何か。そう言える。これは、あの場所じゃない。
はじめの滞在予定期間を過ぎて、泊まってしまっている部屋は、何本もの白い絵の具のチューブで散らかってしまっていた。絨毯にも飛び散っている。間違いなく清掃料を払うことになるだろう。怒られるのが嫌で、もうずっとここに住んでしまおうか、と思う。白以外には窓からの透明な光とベッド、青や、赤系の空の色を再現しようともがいた、使い切れない絵の具。
ふと気になって、わたしは腕に筆を立て、自分の肌を白く塗ってみた。本当に白くなった。あの場所では迷彩になる。白いシャツと白いズボンも買った。服から出る部分を白く塗ればいい。
わたしをもうすっかり知ってしまっている。窓口の人は笑って、さすがアーティスト、といってくれた。気づいたらアーティストになっていたと思う。ただ、どんな目的だろうと、見学の申請をしなければ入れない、と言った。掃除をする人たちの服が黒いのはなぜか、と聞いたら、白いと見えないからでしょうと適当に返された。自分で用意した服は、掃除の時には着てはいけない。あれは制服なのだという。
基地の二階の展望台に上がって、ガラスの向こうの地平線を見る。地面の線というより、空の青い線である気がする。空を支えている様々な物が取り払われて、青がここまで降りてきている。わたしははじめ、白い床一面に絵を描こうと思ったのだった。ここに描くのなら、何年、掛かるだろう。この窓を通すと、掃除をしている人の姿はない。本当は何もなかった場所であるため、作業員の服は、このガラスのフィルムでは見えない特別な色をしています、だそう。そもそも、フィルムでさえぎられた景色など、見ても意味がない。わたしはいつもリアルなものを見ていたい。
博物館は、地下にあって、この地がかつてあった様子が記録されている。人はいない。展示物の中には、真っ二つに切られた日用品や、建物の模型か、本物かよくわからない遺物があった。それらの直線上の境界で、世界が消え去ったのだろう。
壊れたのではなく、切り取られた。ここをこんな風に白い空間にしようと言ったのは、あの人だ。わたしはそれをあとから知った。あの人が考えたのだと知って、驚くことはなかった。ここはあの人の作品のうち、最も美しく、最も人に問を突きつけるものであると思う。だから、わたしはそれに答えたい。打ちのめされるのではなく。創ることによって答えたい。
白い白い地面に描かれた、ばつ。ばつ。小さなばつ。これは昨日、ここになかった。公園でいうと、いつもおばあさんたちがゲートボールをしていたあたりだろうか。掃除屋さんたちが、何かの印に付けたのかもしれない。でも、いつも黙ってホウキを振っているだけの掃除屋さんたちも、たまにはここに何かを描くことだってあるだろう。基地からそう遠くない場所だ。ブルーブラックのばつ。万年筆かサインペンか。前に迷ったことがあったなぁ。
結局、道具について迷う前に、限界まで歩いてみれば良いとわかった。歩けなくなるまで歩いて、それで必要な道具がわかってくる。それで、わたしの書く力によって、少しずつ変形していく万年筆が心地よいとわかった。力加減も、持つ向きも、ペンは憶えている。今まで書いてきた言葉、全てがこのペンを通っている。ずっと使い続けること。これが道具の条件だ。長く使い続けたものには、わたしの手の形が刻まれている。いい道具はこうやって、年月とともに作っていくものだ。
あのころ使っていた小さなタッチパネルの文字入力機は、バッテリーが劣化してもう使えない。物理的に複雑すぎるから、外界の変化に耐えられないのだろう。万年筆のペン先は、書くことで変わっていくから、長く使える。書かれて、新しくなる。一文字、一文字、書くたびに、新しくなっているといえる。こうして万年筆でずっと書いているから、もう機械で書くのが良いかどうか、迷うこともないだろう。急いでいる時は、そのままメールを打つみたいに、キーボードを叩くときもあるけど。
この足でわたしはずっと歩いてきた。どんなにヨボヨボでゆっくりになっても、この足で歩いていくだろう。
ねじを巻いて、キッチンタイマーで書く時間を決めている。掃除屋さんも同じでしょう。無限の空間を一度に行くことは無理なんだから、休み休みその果てしなさを味わうのが良い。一歩、一歩。この広さなら、速いことも遅いことも関係がない。足を踏み外さないこと。ペースをつかんで、遠くまでも行ける。ある体の状態をつくること。これはジョギングに似ている。競走じゃない。景色を楽しまなくちゃ。行ける距離よりも結局、どれだけ楽しんで走ったかが大事。目標もたまには役に立つかもしれないけれど、書いて書いて、書こうと思った時にはそんなこと忘れてるよ。いつの間にか寄り道しちゃうかもしれないしね。さあ、走ってこう。
家を出ると、公園があります。いつもおばあちゃんたちがゲートボールをしています。隣の学校では、生徒たちが一生懸命野球をしています。
ああやって君が泣いているのを見ると、わたしも泣いてみたくなってしまいます。
そのまま公園を裏口から出て、松林がどこまでも並んでいるのを見ます。ここはかつて、海だった。素晴らしさも、暮らしも、涙も、かじかんだ手も、この海の上にある。それを忘れて、この道を愛おしむ事はできない。ただ広い、平らな海じゃない。そこに魚がいた。貝や鳥もいた。カニもいた。海藻もあった。それでも海は新しい陸地を受け入れ、身を削った。ただっぴろい草原になった。誰も住んでいなかった。ここがまた、白い白い永遠に開拓されることのない荒野になるのは、なんだか懐かしいこと。
そうやって、思いが満ちて引いた海に出る。静かだった。鳥が冬の空からやってくる。空は深く青くわたしたちを見守っている。太陽の光を浴びるために傾いた集合住宅が、たくさんの窓を開いている。
わたしは、この海とともに呼吸をする。歩いていたのが、いつの間にか堤防の上を走っている。風が来る。ここに眠る人たちの息吹が煙になって鼻をなでる。彼らを守って立つ松林も。わたしは、鳥になって、魚になって、この海の中に立ちたいと思う。晴れわたった空が、痛いほどまぶしい光を届けてくる。何度も来ているうちに、わたしの髪はちぢれて、肌は焼け、昔からここで海にたよって生きてきた漁師のようになるだろう。ゆっくりと歩いて、何を考えたか忘れる。目を閉じているわたしの夢。ひとときの、新しさを目指す変化と変化のあいだ。わたしが生きていた日常。そこで、息をしていた。
どんなものも、いつかは忘れ去られて、なくなる。あるいは世界のほうから、それを奪っていくんだよ。そう知っているから、わたしは描く。どれだけくだらないと思っても。くだらないのがもともとだから、消えて仕方ないのがもともとだから。カンバスの力と、わたしの腕と手の力の間で、筆先が花火のように散った。
見続けているうちに、白とはどんな色かを忘れてしまった。窓際のサボテンは、白を知っているのか。知ることもないで、光を浴びて体が育っていくのも、感じているのか。白は、忘れさせる色をしている。
もうそのままでいいと、何も描かずとも完成されていると。白は教えている。光あれ、と言葉があったあとの瞬間はそうなのか。あるいは光とともに全てのものの輪郭が、一度に浮かび上がったのか。あの場所に立つと、清掃員の無駄のない装備と、体つきがはっきり見える。わたしも、体の内側と外側がなくなって、透明になる。心が表面になって、隠しようがない。まるで恋をする恥ずかしさのようだ。好きなあなたの前で目を閉じるような。
物と物。描く筆と、描かれる平面。そのあいだに、いかに表現を成立させるか。物、はわたしの体であっても良い。ものは、あの白い地平でも良い。その間に、どのように線を描き、色を生むか。光の散乱を浴びて、わたし自身が変質しても良い。あくまで、二つのもののやりとりがあれば、描かれる物、描くものと固定しなくても良い。わたしの中で、抑えきれない何か。あなたに話しかけたいなにかが、沸きおこり、通じる。それでもう良いんだ。深く、深くあなたと、言葉を交わしたい。
最後の最後まで、わたしは道具を選ぶ。わたしの体を、あの地に持っていくための。あの地で交わすための言葉を。
いつの間にか、また朝になる。いつも、いつもぼんやりとした考えが、頭の中で言葉にならない。何も持たずに出発する。体が動くようにちゃんと食べて、排泄した。くり返す。くり返す。そればかりして、どうして飽きないのかと思う。同じような動きばかりで、体の同じようなところが痛む。その痛みが、乗り越えれるべき痛みなのか。そもそも、仕方ないものなのか。あるいは、わたしのほうが壊れていっている証なのか。どうせ壊れるなら、壊れるまでしていいかと思う。右手が壊れたら左手がある。
雲が集まって雨が降った。それが雪になる直前、この場所に張り詰められた雨水が空を映していた。灰色に広がる空の鏡。仕方ないから、休みなさいと言われている気がした。雪が積もって、また白くなった。とてもよく似た白だが、少しいつもと違う白い色。わたしたちは、帰るか留まるか、散り散りになった。たまに見る別の光景に引き止められる人も少なからずいた。めずらしく基地の二階に人だかりができた。
白い雪は、太陽の光を浴びて、虹色になった。水晶を床一面にちりばめたようだった。ただ見ることでしか美しさを味わえない。触れると、とけるし、持ち帰ることも無理だ。朝方になって、オレンジ色に燃えるように輝いたあと、昼には水になって、青い空を映していた。やがてまた白い基底が光とともに現れ出る。
地点を定めるのではない。自己を定めるのではない。失うこと。行く場所がないこと。そこにわたしたちの魂を置く場所がある。矛盾ではあるが。どの網の目にも救われなかった想いが、あなたの心に届く。迷い、曲がりくねり、何よりも遅く、最後になってやっと届く。あらゆるものをすり抜け、何に汚れることなく、枠にもはまらず、なぜかそこにある形で、それはもうあなたの目の前に来ている。そこにたどりつくために、わたしたちは身を裂く。心を切り刻んだり、折り畳んだり、にぎりつぶしたりする。最後は、どうだって良かったのだ、と思う。
無駄を無駄と思うためには、この手でやってみなければいけなかった。本当に必要だと思えるまで道具を使わないことにした。いつでも引き返せるように。企画案では、白いタイルを敷き詰めることを提案したが、いつの間にか白い土を水で固めて、平らにしはじめていた。一日で腰が立たなくなってしまった。フィールドとその上に描くことをやってきたのに、この地が背負うものと、背負えなかった傷と、痛みの意味に圧し潰されそうになって、体が悲鳴をあげた。それは確かに、この地に何かある、という証拠である。
神頼み、ということも考えた。祓ってもらおうとして、神職の人を探したが、あまり良くなかった。町自体が失われてしまったのだから、そこに元々あった神社や寺ももうない。住んでいた人々も。外から呼ぶことに抵抗があった。わたしも外の人間だった。
スピードはともかく、わかるまで手で地面を打ち続けた。空間は端正に、正方形に切り取られてしまったようだ。その理不尽な境界を恨むように、しずめるように、土でもう一度、固めていた。
作業をしているうちに、もとは海だったところを埋め立てた、という話を聞いた。もう一度海に戻さないか、という案も浮かびあがってきた。わたしが敷き詰めてきた土は、一日で片付けてしまえる。いつでも引き返せる。別の何かになってしまえる。腰も、手も、無に帰ってもおかしくない作業で、壊れかけていた。それでも止めなかった。おかしいほど、別のことが身に入らなかった。
ニンジンを細かく切り刻み、鍋に入れる。ニンジンが細かく切り刻まれ、鍋に入れられる。破片がサイコロ状に転がって、ひとつひとつが鍋に入っていく。直方体に切られた断片が、それぞれまな板の上を転がって。あとのものは、前のものを押して、前のものは押され、重なったり、乗っかったり、引っかかったりしながら水に入っていく。水はゆれる。隣がゆれたらそのとなりがゆれる。上がゆれたら、下もゆれる。だんだん力が小さくなってゆれる。またオレンジの直方体。リズムもタイミングもめちゃくちゃに、ゆらされる。鍋のふちに当たって、跳ね返ってきてゆれる。波と波がすれちがう。また直方体。すれちがったタイミング次第で、波は強くも弱くもなる。また直方体。直方体。水面にふれた空気もゆれる。ブランコのように、ゆれては引き戻される。まだ音にならない振動が、鍋からあふれだす。
日常の中に埋もれていくしかないわたしたち。考えてはうまく生きられないわたしたち。ときどき立ち止まるのはそのせい。雑念は教えてくれる。通り過ぎていったこと。あの時、実は起こっていたこと。日常のどこからでも非日常は、はじめられる。
じっと手を動かしていると、もう大丈夫だなと思える瞬間が来る。どれだけ、頭の中に霧がかかって不安が立ち込めていても、とつぜんそれが動きを止め、明るいあなたの顔や、話したいこと、声が浮かび上がってくる。やはり、好きなのだと思う。好きな以上にどうにもできないことは知っている。手を動かし続ける。ずっと呼吸に集中していると、あなたの居る場所に考えがたどりついて、きっと頭の中でなにか起こっているとわたしは思う。
悟りたいとは思わない。そもそも、日常のくらしで、悟りたいという欲望は浮かんでくるものではない。それはふとした時に、なんの理由もなく人に与えられるものだから、待つこともできない。ただ、日常の中に、わたしはここにあってもいいと思える時間がある。だから、手を動かす。涙のような雫が、白い床に落ちた。
手でひとつひとつ土を固める。わたしの、手。汗も落ちる。雨も落ちる。どこからか種も運ばれてくる。手の跡はひとつひとつの力加減と、わたしがいたことを証明する。この床はわたしのもの、と認められるだろう。それは嫌だった。作業を止めて、他の人を呼ぶ。なぜひとりではいけないのか。ここにかつて居た人は、ひとりではなかった。ましては、わたしでもない。だから、わたしひとりが作り直すことができない。誰かとでないと。誰か。誰かだって、ここに居た人ではない。でも、わたしひとりよりかはましだ。これから新しくこの地を踏む、わたしたち。なぜ道具を使わないのか。手が痛くなる。腰が疲れた。いつ終わる。どこまでやるつもりだ。何の意味がある。もう、したくない。
人は、それぞれ、いくつか土を固めた。わたしは、皆が帰ったあとも、土を固め続けた。終わらなくたって良いのだ。
書く、こと。書かないこと。書いていない日常の中で、ふと、切れ目が見つかることがある。書かないことは、あまりにも自然だから、いつまでもその切れ目に気づかないこともある。はじめて書きだそうとして、何も汚れないペン先で切りひらいた線。それが自分が作った切れ込みといえるかもしれない。それ以来、日常は、書き出しの形で裂けている。それに手を入れれば別の世界が広がっている。
自分の弱さを認められなくて、わたしは何かを信じることができなかった。眠れない夜。どこにも居られない。本も読めない。刺激や快楽では満たされない。書くしかなかった。確かに何かがあると信じて。信じるしかない。この手が生み出す言葉を、価値も、意味もわからず信じている。わたしは弱い。確信することができない。託すことしか。あずけることしかできない。どうか。
あなたに届けたいと思った言葉は、ちゃんと届くのでしょうか。何を書けば良いのか、わからなくて、終わらない手紙を書いてしまっている気がします。書いているうちにわかるだろうと思って、書きはじめたのですが、思いがあふれるばかりで形になりません。いつになったら触れることができるのでしょうか。あなたのいる向こうへ。それとも、そこにはもう、この世界に存在しないのですか。こんなに、あなたの顔を心の中に思い浮かべているのに。
どうして。どうして、失われたものを想うために、言葉を、埋め尽くさなければいけないのですか。喉を、枯らさなければいけないのですか。心に、いつまでも、刻まなければいけないのですか。あの白い何もない場所は、何も語りません。あなたをずっと、想わないといけないのですか。もう、あなたのことを考えずに、あたりまえに隣にいたころのように、手をのばせばそこに居る、と思えたころのように、いられないのですか。
どうして、失ったはずなのに、こんなにも強く、あなたが愛おしい。
叩いた。たたいた。たたいた。地は、鈍く応える。どこまでも広がる平面を、わたしは歩いてみることにした。焼け野原、ともいえない。焼いたのではなく切り取ったのだ。なかったことにされたのだ。悲しむことができるのは、誰なのか。いつに向かって祈ればいいのか。ここがどんな場所だったのか。ただ、寂しかった。もう一度はじめから、ここに町を描き直す事はできない。だとしたら、この平面を、かつてあったここのために、忘れないために残しておきたい。ずっと待つために。わたしたちは、土を打ち付けた。
あの長い、長い道に小舟を浮かべて、海に着くまでゆっくり町並みを見ていよう。きっと匂いがするだろう。新しい風と懐かしい匂い。舟も小さくて、きれいな飾りで行こう。乗る人も、おめかしして、ハレの着で。川には、舟を立てるための木の柱が。両岸には、お店の匂い。あっちは昔からやっているうなぎ屋の、タレが焦げる匂いがする。しばらくすると、まんじゅう屋のあんこの匂いがしてくる。洗濯をしているお母さんがいる。白いシャツが、はためく。その下で、貝を剥く練習をしている女の子がいる。積み上がった小さな貝殻の山がかわいい。そうして、海に着いたら何をする。何もしないさ。海に着いたらただ海を見る。腹が減ったら魚を釣って、舟の上で食べる。そしてまた町に引き返す。
あの、どうしてあなたは何も、着けていないんですか。その人は、仮想現実のゴーグルも、スーツも着けずに、白い場所に立っていた。まるで散歩に来たかのような格好だった。まるでその人が立っていること、それだけが、仮想なのかもしれなかった。その人は、答えずに、見学班のグループを通り過ぎて、白い地平の向こうに行ってしまった。
見学に来る人は、もとからこの地には居ない変な人ばかりだった。わたしだって、自分がまともであると言うつもりはない。ただ、いつも変な人といると、自分も変だから、きっとこの人たちとは気が合うんじゃないかと思う。このわたしが変だと思う。ある特殊な空気を、彼らは持っていた。この場所に来るのは、理由がないといけない。自分から思いついた理由のほかに、この場所が人を呼ぶことはないだろう。戦いの傷であることは確かでも、それを残す歴史も、本当は何もないのだから。だいいち、地下の博物館で見せられる史料も、ほんとうのものかどうかは誰が判断するのか。たったひとりのイマジネーションだとしても、それでよいのかどうか、判断を下すこともできない。
わたしがこの場所に行ったのは、そうした本当のことを確かめたかったわけじゃない。公然と自分の足で、この白い床を踏みたかったからだ。
靴を脱いで、わたしは地を踏んだ。裸足に吸いつくように、やわらかな床だった。息を失った肌のような。どこかやさしいけれど、やはりここは死んでいるように見えた。足で踏んだのだから、手でも、と思って、わたしは手を床についた。何の匂いもしない。やわらかな床だった。そのとたん、わたしは力を失って、うつぶせに寝ころんでいた。何日も夜、うまく寝つけなかったせいか、強烈な衝撃を受けたように、体が目を閉じて動かなかった。まぶしかった。
落とし物としては、ゴミや、飲み物の容器が多い。清掃員が持ってきていて、うっかり落とす。掃除するのは自分だから、みんな落としたくないと思っている。
緊急連絡が入って、わたしの集中が途切れた。人が倒れた。搬出する。近くにいる清掃員と、地点に向かう。
見学者の中に、疲れて倒れた人がいたという。携帯用の担架があったから、その上に寝かして運んだ。基地の病院のベッドに運ぶところまでやった。時計をうっかり見てしまった。はじめからやり直しになりそうだ。見学をしていて、体調を悪くしたり、疲れたりする人は少なくない。毎日通っていると、ここが大勢の人の思念が宿っている場所であることを忘れそうになる。気軽に見学といっているが、何かを感じてしまった人は、学習する余裕などないだろう。
町はなくなったが壊されたわけではない。人はいなくなったが、殺されたわけでもない。ただここから、なくなってしまっただけだ。現に生きていると言えるかもしれない。時々、恐ろしくなる。声を聞いたり、幻を見たりしても変ではない。
どうしても仕事に集中できない時は、タイマーを使って、目の前の十五分間だけ、手を動かそうとする。もうこれだけ書いたら、今日は書かなくても良いと誓うつもりで。日に何時間も書こうとすると、気が滅入る。いくら、書きたいと思っていても、書かないで生きていくことだってできてしまう。
そのあいだで、書いて生きていくことを選び取るのは、普通ではない。無理矢理にでも書いて、押し通さないといけない時もある。何日も書かなかったあとの日なら、宇宙飛行士が、地球の重力に耐えられないように、文体が紙の上の重力に、耐えられず、言葉がよじれる。悶える。この異空間に、身体を少しずつ慣らしていかなければ、深いところ、奥まったところにはいけない。ひとつの作品を作るごとに、世界は広がっているから、考えることも感じることも、この中で、この世界の中でしようとしなければ。書くことの全てをこの世界に捧げても足りない。足りないと諦められるところまで書いてみる。それは、納得なのかもしれない。そう、何か納得するって、何かあきらめること。書いたあとには変わってしまう。やっぱり、わたしはここには留まっていられないな。
疲れる。というのは精神のことばかりでなく、日常の時間の流れが疲れてくることもある。机がすぐそばにあって、いつでも書けて、良い椅子があったとしても、書かなかったときがある。だとしたら、ちゃんとした環境なんて、ばかげたものだと思う。まるで、ここで書けと言われているようで。あくまで、書くことができて、終わりになってしまうではないか。
わたしは書くべきものを抱えているはずなのに、どうしてここにいられない。あなたはどこかにいるはずなのに。何が鍵を壊したのか。言葉か。あなたは、忘れられてしまった。涙を塗り固める事ができたら、この跡地は美しい丘になっただろう。あなたのやわらかな肌に、わたしは目を閉じてふれられただろう。言葉が言葉になるまえに。探す手は光を必要としない。闇の中でも。たしかなものはあなた。だから、虚空でも手をのばすの。掻く、掻く。虚しくても爪を立てる。
空はどうしてこうも寂しいんだろう。ただ青く。あてもなく広く。その果てにあなたが居る。わたしは思う。日常が薄く切り取られて、紙のように積み重なる。風が吹いて、落ち葉のように散り重なる。乾いて、空を向いて、ひらく。軽やかに踏まれ細かくなる。大きな葉は、雨に濡れてしっとりと重なる。
木々が包んでいるゆっくりとした時間。動いているのは、風が吹くから。水面に映った姿もゆれる。日が暮れていく。わたしは知っている。葉をひとつ、落としてくれた。鳥が鳴いて、神経のようにはりめぐらせた枝と、細やかな葉のあいだを飛ぶ。ひとずつ光を通らせた葉の色が重なる。どこまでも細かい。どこまでも大きいものが包んでゆく。
撫でてくれませんか。足の親指から、頭の先まで、愛情だけでできているからだを。葉と葉がこすり合わさるように、重なりあってはじける光と、一瞬の出会いのように。わたしの中にもあると思う、から。生まれると思う、から。こんなにも楽しい。打ち震えている、世界の肌理を。
そのまま。わたしに教えてください。まだ知らないんです。きれいね。すてきなあなた。光った。数々の葉の隙間が。光った。ずっと声がきこえている。そばにいたい。このまま。どうして帰ってきているのだろう。もうすぐ、オレンジの色が青くなる。どうしてでしょうね。なんでだろう。これは永遠を、示しています。
この白い穏やかな海に、舟を浮かべてあなたと手をとって、こぐ。どこまでも広いから、まっすぐ進めばいい。ずっと、ずっと。青くつめたい空が、わたしたちを待っている。
あなたは、応えようとしている。じっと待っている。何もなかった。説明できるものは何も。ここは失われた。あなたは、黙って気づかせようとしている。傷が見えなくて泣けないわたしに。何を失ったかもしらないわたしに。なくしたものを、教えないかわりにただそこに立っていてくれる。
青、オレンジ、赤、茶、緑。色にはちゃんと名前がある。光と光のあいだに名前がある。より細かに、数字のくみあわせで切りわける。何を描こうとしたのか。名前のない色を探そうとした。混ぜて、混ざり合わない粗い色、定まらない色。
たとえばここがピンクで一面だったとしても何も変わらないでしょう。他のどんな色でも、赤でも青でも緑でも。だから、何でもない色で塗ってやりたい。それでも倒れないのか君は。
倒れた。倒れたよわたしは。白の中で自分を失って。まぶしくて、どうにもならなかった。ただ何もないことほどこわいものはない。仕方ない。仕方ないな、君は。わたしは。
目を開けると、いくらか模様が目に入る。家とは違う天井が見えた。あまりにも、不純な白に拍子抜けした。わたしは体を動かそうとして、痛む。ベッドの上にもたれているのが、まだ楽だ。天井を見る。ずいぶん時間が飛んでいる。流れからはぐれてしまったようだ。もう一度、目を閉じてふとんの匂いをかいでいた。
少しずつでいい。でもこだわらずに作り続けて。いつも絵を描くときに響く声が繰り返していた。抱きしめるもの、といっても自分の体かふとんしかない。手に持つ筆もなく、指を閉じたり開いたりした。
空には、うずまき状の雲が龍のようにうごめいていた。とぐろを巻きながら、中心が深く深く落ちている。青い冬の空だった。それは、一瞬赤く輝いて、近くの海に落ちた。黒々と輝く、おそろしい赤だった。地面がゆれた。津波が来る。友達と近くの高い建物に逃げた。
そこにはもうたくさんの人がひしめいていた。上の階まで逃げられないかもしれない。友達はどこかに何かを取りに行ってしまった。
それから、友達は帰ってこなかった。町は一日も経たないうちに水に満たされ、茶色くにごった。家の屋根が見えなかった。さまざまな人がそれを見て泣いていた。
それから、わたしは友達を待ちながらどこかへ通っていた。何かを失ってしまった人のための本を持って。駅で電車を待ちながら、読んでいた。ふと目をあげたら、かばんがなくなっていた。そこには、書きかけの小説と、ずっと使ってきたペンが入っていた。パソコンも入っていた。お金も入っていた。
わたしは、またペンを買うのだろうか。わたしは、また何かを学ぼうとするのだろうか。全くの絶望から、はじめるのだろうか。
喪失感と共に目覚めた。わたしが書くことができる世界に。ここには、ペンもノートもある。友達もいる。手に取らなくてもわかる。感じる。ここでは、書くことができる、と。
心にはまだぽっかりと、白い傷痕が残っている。もう何にも埋めることができない。慰めることもできない、傷がある。
もう一度、そこに立って、言葉を解きほぐしにいかないと。意味も流れも忘れて、何もわからなくなって。そうだから、わたしが書く。書きたくなる。
ねえそうでしょ、といわれたって、実はよくわからない。わたしは、適当にうなずいて、目の前の色を見る。さあ、どうしたことか。描くことはできる。構成もすこし見えてきている。描きたい気持ちもある。でも今はまだ手を付けるべきではない。そんな時期だ。そうした迷いとためらいを入れないと絵は絵にならない。絵のようなもの、を作ることはできる。しかし、それは絵ではないと、いずれ分かる。
かけないこと。いつのまにか、自分で作った言葉の檻にとらわれて、前に進めなくなる。立ち往生しているうちに、書く体力が奪われる。迷いを振り切る事ができなくて、考えることもできない。書くことが建設的といわれると、そうではない。基礎をやわらかく、融かしていくことが、書くことだと思う。書いているうちにわたしは、自分が確かだと思っていたことが信じられなくなる。
風景の絵を描いた。そこにあなたはいない。道が地平線の向こうに続いている。空はひたすらに青い。はじめは、凹凸のある丘の上だった。描いているうちに直線の地平線と空だけで構成できると思った。地面の草も道も消したら、真っ白になった。それでわたしは、いろいろな直線の地平線を描いた。時々、人が立っている。忘れられたように物が落ちている。今日は、その上で倒れているわたしを描いた。横になって空を見上げている。
いつから調子が悪くなったって。自分で書く時間がわからなくなって、タイマーを使いはじめた時だ。時間を決めなくたって書けたはずなのに。椅子にすわる時間を短くしたいだけだろうに。書けないときも座っていよう。ここで過ごす。あまり部屋に椅子を置きすぎないように。休むための椅子、寝るための椅子、瞑想するための椅子、物語を考えるための椅子。そして書くための椅子。それらを分業させるのではなく、ひとつの椅子で済ませたい。となると、必要なのは固くて木でできた、平たい動かない椅子ということになるだろう。腰が疲れたら立ち上がれないと。
今週もぽっかりとした週末だった。体のリズムが、朝早く起きて仕事に向かうようにできているのか、早く目が覚めて、お腹が減った。全て投げ出したくなって、重いまぶたを半分下げながら、歩いた。自動的に足が向かうのは基地の方向だけで、ファストフードやファストファッション店がこの街も人が住んでいる街だから、と並んでいる。色とりどりなはずの看板は景観保護法により、白と黒しか使用されていない。さらに、全体の八割を白を基調にしなければならない。色があるのは、車か、信号機ぐらいだ。人の服は、不思議とこの街の色調に合わせるように質素になる。青い空があることに気づく。曇りの日は、目がおかしくなったかのように、色が失われる。
基地の方向に足を運ぶと、やはり基地に行くしかなくなる。四角い箱のような建物で、この街は終わっている。それより先は、本当になにもない。
何もない場所から来る風は、匂いがしない。温度もつめたい。塵を白い床に落としていき、澄んでいる。目に見えない塵をほうきで掃くのがわたしたちの毎日の仕事だ。黒い人影がぽつり、ぽつりと見える。休日の朝早くは誰もいないから、白い床は、ただ何も載せずに広がっている。
はじめのほうは、問いが浮かんできて、言葉になる前に消えた。その動きがこの地に人を駆り立てる。いずれこの街の白さに慣れると、わからないまま、語る言葉を忘れていく。
語る言葉や日常を、取り戻そうという気も街にはない。色を取り戻して、ちゃんとした街に変えようとしたデモがあったが、景観保護法によって、沈黙させられた。色のついた服を着ている人が少ないのは、その法律のせいなのかもしれない。ここはもう完成させられている。同時に、失ったものをずっと失ったままでいる。
失くしたものを探している時間はつらい。上手くのどを通らなくなった声が体に反響する。ひとり、怒りを吐き出す相手が見つからず、泣けてくる。家にある全部の引き出しを開けた。けれど、古いキッチンタイマーは見つからなかった。ないことだけはわかる。同じ引き出しを何度も開けた。気がつけば、夕方になっていた。お腹が減ってもまだ探していて、このまま見つかるまで食べずにいようと思った。思い出そうと頭を回しているたびに、怒りと悲しみの回路を通る。これが亡くす、ということなのか。体が認めようとせず、物をひっくり返すのを止めることができない。
部屋を暗いままにし、静寂を聴く。ペンを持つ手の慢性的な痛みを感じてください。言葉の流れを駆動させるのは、どの方向ですか。押し倒したら、倒れそうですか。切ったら血は出ますか。あなたにとって書くことは、本当に必要なものですか。書かなくても死にませんか。書いていたら死にたくなりますか。その間で、どちらでもなく、あなたは迷いますか。
言葉が染みついた透明なひだを広げたら、きっと人生一枚分になるのです。この膜は透明で、あたかも向こう側があるように思えますが、それは錯覚です。向こう側ではなく、言葉の膜が透かしている向こうが、見えているだけです。このようにして、白い紙に、縫い目のようなブルーブラックの文字たちが踊ることで、白はいくらか透明になるのです。どうにかして、この世に存在しなければいけない文字が、不思議とわたしたちの意識に、自然に表れ出てくるのは、読むことができるからなのです。白い壁の模様ではなく、文章として言葉が表れ出るとき、紙は透明です。
だから、あなたがここに言葉を刻む時、それは塗り重ねているのでもなく、消しているのでもなく、刻んでいるのでもなく、その向こうを、ただ見ているのです。論理は言葉によって、生み出されますから、平面と並行方向に、移動します。それは撫でるようでもあります。それに対して、この現実、物理として上に触れるペン先の質感は、垂直方向に、向こうや、あなたの背後からやってきます。
この場所を訪れたひとは、ひとりではありませんから、この場所をこれから踏む人は、今日で終わりではありませんから。
書いている。あなたが書いているから、わたしも書くことができます。膜の向こうから手を合わせれば、少し、あなたの温もりを感じることができます。細い、細い、ペンの先が、わたしの肌の上を踊っているのを、感じることができます。
防水の靴は冷たさを感じない。雨が降れば、この地は空の一番深いところまでの青を映して、質感の底までもを失う。立っているわたしのほうが、なぜここに立っているのか、わからなくなる。無限に深い青のどこに視点を定めれば良いのかわからず、上と下と、床と天井が失われる。足が崩れ落ちた瞬間、もう戻っては来れない深さの空に、吸い込まれていくことを意識し、気を失う。しかし、落ちたところに見えない床があり、そこで体は止まり、打ちつけられる。もう一度、立ち上がればまた、視点が失われた、底のない景色が広がっている。
歩いては、膝が崩れ、歩いてはまた崩れる。もう、転がったほうが前に進めると思う。しかし、横になっても、どこまでも深い青に、意識が遠のいていく。
いつのまにか、全ての水が空に還って、白い床の上に転がっていた。
そこに立っている人がいる。ぽつりと一人立って、空を見ている。それがあまりにも自然だったから、わたしはおどろいた。子供が空をながめるような、自然さだった。美しいものを探すためでも、日常に疲れたからでもない。その人を囲むように、黒い服を着た掃除屋さんたちが、うつむいて、雨が運んできた塵を払っている。
物語なんて、こんなのでいいんだ、と思えた瞬間がある。それは太陽があかるいのと、身体があたたかいのと同じぐらいのあたりまえさで、ここにある。わたしの中に、ひとかたまりになる何か。ほどけそうで、消えそうな何か。いや、それはわたしのものである必要もない。ずっと書いていると消え入りそうになる。それでも確かに、ある。
その人は裸足のまま、遠い地平線に向かって歩いていった。
朝の言葉をわたしは知らない。言葉にしてこなかったものばかりで。日々、塗り固めるようにインクで書くばかりで、いつになれば辿りつくのか、想像できない。それがただ怖い。このかたまりを、抜け出せる日はいつ、来るのか。
寝不足のときに掃除をすると危ない。集中しているかどうかで人間が発揮できる体力は違う。白い床の上で倒れたら帰ってこられるかわからない。今日、出勤するかどうかは、各自の判断に任せられていた。体調は検査すればわかるが、精神の状態が、今ここに向いているか、それがどのぐらい保たれるかはわからない。しかし、化学物質で心なしか、覚醒状態を保っておく方法もなくはない。
信頼しきることはできないが、ないよりはましだ。
朝起きて手を動かすだけの仕事に、よくもこう生活を変えられてしまったものだ、と思う。
わたしは、内側にいたいのだ。あの地の内側。境界というものを設定して良いのかわからない。しかし、あの床を直接足で踏むことができた時、わたしは落ち着きを心に感じた。実際に踏まなければわからないはずの質感を、心は前もって知っていたかのようだった。その安心感のために、毎日行くことができるように、体と心を整える。何かを生み出すとか、想いの強さを試されるとか、そんなことは必要なく、ただ床を掃くだけでそこにいられる。それが良かった。
何かを書くか、書かないか。それが良く眠れるかどうかと関わっている。書かなければ、自分の頭のなかであれこれ考えてしまうため、頭がぐるぐる動いてよく眠れない。書く文章の質や方向性にこだわらず、書くことは良い。
一方で小説のある場面を上手に書きすぎてしまい、興奮状態で上手く眠れないときもある。書くことに適度に集中しつつも、没頭しすぎないことが重要だ。最近問題になっているのは、書く以前に体力を使い果たしてしまい、書く気力もないまま布団に入ってしまうことである。疲れて体が動かないが、頭の整理ができていない。書いて整理しないとやはり眠れない。
書くことに必要なのは、椅子にあるていどの時間、座っていられる体力だ。その体力を使って、手と腕を動かし、言葉を待つ。待つことには体力が要る。体力がないと、言葉が来るべき時を逃して、ペンだけが先に進んでいってしまう。それでは、頭の整理ができない。
書くことは果たして整理といえるだろうか。言葉を選ぶなら、迷うことになり、何も選ばないなら、闇雲に情報の中を漂うことになる。
いつのまにか、忘れてしまった。書くことがはじまった時、わたしはいつも自分を励ますために書いていた。手帳には今日できなかったこと、できたことなどをまとめた反省が書きこまれ、その文章が、わたしが自分のために書きはじめた文章の、はじまりだった。日々の反省は、全て前向きな言葉で締められていた。偉人の名言を、わざわざ引用して書き写すこともあった。そのくりかえしで、わたしの日々はできていた。前向きな言葉は、わたしの目を明日に向かって、安らかに閉ざしてくれた。
そうやって、わたしは過去を埋め立てていったのだと思う。一杯ずつ。忘れることができない過去に、蓋をした。
わたしは眠れないほど、弱く、震えている。泣けないほど悔しくて、その涙を拭いてくれる人も、目の前にはいない。何が困難なのか。その困難を背負う前から阻まれている。暗くて見えない道の中で、足の着かない夢を想う。想う時間もなく、一日が終わり空回りする。
辛かった。心は傷ついている。確かな物にまた会いたい。それは、確かな、確かな物だ。わたしはあの時、確かにあなたに触れていた。あなたはわたしに触れていた。重なる手のかたち。その時、わたしたちのからだは揺れていた。風の中で、時の中で透明になった。見上げる空の雲が動いた。ああ、こんな風にゆっくりと空を見上げていたのはいつのことだろう。懐かしくて時が過去に流れた。
言葉が。そう、言葉が確かであればいいのに。書かれたこの言葉が。あなたに向けて届けたこの言葉が。言えないことを。言えなかったこと。実現できないこと。弱いこと。儚いこと。美しくもなく、ただ、情けなくてみじめなこと。それでもまだ書くことが残っている。だから、わたしは書くことを止められない。
この床は。この床が白いことには、だからこんな意味がある。あなたがまだ想いを、このどこまでも続く床に込められますように。想い切れなかったこと。想うことしかできなかったこと。この空白が埋まることはない。わたしが報われることも、慰められることもない。ここで生きると。わたしがわたしであると、思う限り。
寒い夜なのに、白く見えていた。それはわたしがいつもこの場所を、白い景色とともに覚えているからか。それとも、この夜が見せる輪郭の透明さのせいか。
ここは、ずっと未来がない。次の瞬間が起こる気配や、何かが動く予兆を感じて、人は未来を想像する。しかし、ここでは白い床が、ただどこまでも広がっていく。広さや奥行きすらも失われて、いく。
どの瞬間のどの空間で起こったものか。この宇宙には記憶されていない。空間兵器は理論上、それがそこにある、という情報ごと破壊する。ごく初期の予備実験のつもりで使用されたものだから、空間のつなぎめは、意識や言語のつなぎめとは関係なく、幾何学的に消滅させられている。だから、切断されたように家は、片側だけが残っていた。人も半分。カップも、靴も、本も、道路も。世界に片足を残してすっかり消えた。
その日から、心では言葉が失われた。何も言えず、何も考えられない日が続いた。机の上は、読まれることがない本で埋まった。書き続けていた日記帳を開く場所もないほど、本やごみや、裁縫セットや、お菓子の袋で埋め尽くされた。街がひとつ消え、社会の鎖は、一度、ぷっつりと絶えたが、しばらくして回復した。涙を流そうにも、何に思いをかければいいのか、よくわからなかったけど。
一日の疲れを解くまでのあいだ、椅子に座って待つ。その疲れがほぐれると、頭の中にすきまができて、心が軽くなる。人を待つように言葉を待つ。温かくして、じっと待つ。
その待つ瞬間に、わたしは耐えられずに眠ってしまう。もう何も書くべき物はないと。考えだけが回る。考えるしかなくなって、考えてもどうしょうもなくなって、やっと、言葉が見えてくるはずなのに。
消えたのは街だけではなかった。空間兵器が作動した瞬間のことも、物理学的に特定できないらしかった。あの時がいつなのか、具体的な順序を持たない、ぼんやりとした喪失がずっとあった。空や海のように満ち足りていて、気が遠くなるような気持ちと近い。星をながめるようなものだろうか。無数に散らばる星々の形や光に、心がぼうとして、いつのまにか、星と星のあいだの暗闇が、宇宙全体となって、体を包みこむような。あるいはふと昼寝をしようとした時に、人間がいつか死んでしまうことを、思い出したときのような。
この消滅を悲しむために、どうしたら良いか。わたしたちの考えは「消えてしまったこと」をそのまま形にして残すことでした。つまり、削り取られた地形をそのまま残すことです。何もしないことではありません。何もないこの場所に何かが生まれたら、それを消すのです。放っておくと草が生えたり、雨が降って水たまりができたりします。だから、土を表面から取り去り、特別な素材で地面を覆います。
その素材の色は、黒か透明か白かが、復興保存委員会で候補にあがりました。黒は、あの兵器が炸裂した時の光景です。透明はそのすぐあと。白は、なんとなく無垢な色だからです。
ある芸術家が白と言いました。彼は人の手で、地面を埋めていくのだと言いました。お金と人手と、時間がかかりました。それだけ多くの反対や、困難も引きつれて、床の制作が進んでゆきました。長いあいだ人は、腰を曲げて、地面を白く埋め固めてゆきました。多くの賛同と支援があったのも事実です。
やがて見えるところは全て、白くなりました。塩田を作るように、人々の手で固められたあとの凹凸を、液体素材で平らにならしていきます。一面が光を浴びて銀色になりました。風のない冬の夜に何時間も掛けて、人が見守りました。人が直接手でたたいた基層は、やわらかにおおわれました。今もゆっくり床を踏むと、すこし凹凸を感じられます。あまりにも儚い感触なので神経を研ぎ澄まして、踏まなければいけません。その澄まされた神経が、さまざまなことも、ついでに思い出させます。
ここを訪れる人は、たいていひとりで来ます。ひとりでここに残っている手のでこぼこを受け止めることはできません。ここで悲しむ全ての想いは、訪れる人が受け止めるというより、もうこの宇宙には存在しない、ある瞬間のために向かっています。だから、訪れる人は、真っ白な床に、その人なりの足跡をあたらしく加えます。その足跡はまた、あの瞬間に帰っていきます。ここを踏む人は皆、この営みに参加することになります。
憶えておかなければいけないことって、何だろう。こうしてわたしが書くのは、書いたことを憶えておくため? いや、昨日、書いたことは、憶えていない。しかし、ページを返せば、昨日書いた文章をわたしは見つける。それを読めば、昨日、わたしがたどった心の足跡を、そのまま感じることができるのか。
雪の道の中に、足跡をつけ、その上を行くか。並んで歩くか、それとも全く無視するか。足を重ねるように進めば思い出せる。並んで歩けば、その人の心に温かく寄り添える。あるいは、自分の温度にも気付ける。
もうすでにできた足跡が、別の道を行けと、背中を押すこともある。全く踏まれていない雪に、足跡を付けるためには、もう既にある足跡は、避けて行かなくてはいけない。
買ったばかりの手帳のように、余白があることが愛おしいこともある。大切なことを何でも、小さな紙に小さな文字で、書いておきたくなる。書き進めた小説のように、さまざまな想いをはらんだ言葉が、流れやリズムを生み出すこともある。生きてまた生きることに、時間は支えられている。日常を見つけるために、わたしは迷う。
いつかは見えてくる。そして、なんとなく見えてくる。少しずつでも進んでいると発見できた時、理由のよくわからない勇気が生まれる。
悩みながら書く。迷いながら書く。書く時間を誰かのために削る。書けない日もある。純粋な言葉ではない。生活をふくんだ、白く光を包みこむ言葉が生まれる。心をそうやって泡立てる作業が必要なのだ。小説や日記は、季節を越えて書かれる。夏に夢を見て、秋に思いつき、冬を忍び、春にやっと芽が出る。その中で、言葉はさまざまな道を巡る。言葉にならないものを引きつれて、やっと放たれる。確信と不安を同時に蒸着させる。分かれ目と切れ目を何度も行き来し、指でなぞり、あたたかくなるまで何度も撫でる。言葉なんてなくたっていいと思うけど、書いてもいいかなと思えてくる。言葉にならない形で理解していく。その、くりかえしか、前進か後退かわからない、何らかの変化の中でなら、わたしは、どんなに拙くても、弱くためらっても、甘えても、どれだけ後悔しても、情けなくても、無知でばかであっても、恥ずかしくても、よいような気がしている。
というか、わたしは歩いても旅できないところを旅していたのだ。急ぐこともゆっくり行くこともできない、ひとつひとつ進んで行く、不自由な日常を旅していたんだ。書き続ければ、いつか終わりは来る。
白いキャンバスに、点をひとつ打つ。次の日も打つ。その次の日も、打つ。そうしていれば、点描が出来上がるだろう。じゃあ、一日に二つなら? 三つなら? 二倍、三倍、早くできあがるのか。そうともいえない。でも、描こうとするのをやめれば、ずっと完成することはない。
ひとつ選んだ図書館の席の机に、黒く細い直線の断片が残されていた。髪の毛のようなしなりはない。きっと、シャープペンシルの芯だ。同じような長さの断片を見たことがある。どれだけノックしても芯が出てこなくなったとき、先に一センチぐらいの芯が残っているのだ。文字になることなく捨てられてしまったのだろう。
この窓際の席は、本棚がある場所から区切られていて、本を読む人より自分の勉強をしている人が多い。制服を着た子供達がテスト勉強をしている。
わたしはここで書いているとき、ちょうど良いところで虫を見つけてしまう。入り口に近いからか、よく、蜘蛛が机の上で跳ねている。子供達のはしゃぎ声なら良いのだが、虫だけは苦手だ。空想が破られて、別の席に逃げる。
久しぶりに舞台に立ったダンサーは上手く踊れるのか。踊る、というモードに入った頭は、日常の動作から外れようと考える。例えば、力を抜いて、舞台にまっすぐ倒れよう。まるでドミノのように。ぎりぎりの所で足が出る。全体重を受けて倒れかかった体を支える。その勢いでさらに体が前に進む。その移動を滑らかにするために、足が回る。
体が先に動いて、あとで心がついてくる。何が起こっていたのか、頭が理解するのは、さらにそのあと。体は呼吸を求める。
厳しさとは、強い信仰を求めることだろうか。考えと自分を切り離して、理想と限界を切り離して、それでも現象していくことなのか。それは、なんとなくすることなのか、とりあえずするものなのか。それでも、迷いなく進むなにかがある。特別な心が求める厳しさが、踊るものの踊りを、踊りにする。
万年筆だから、一万年使えると思っていた。わたしが書くのを止めたら別の誰かが使ってくれたらよい。あるいは、誰かの筆を使って書く。その人の手の形によって慣らされた筆先は、言葉のあらわれ方も、その人に似てくるだろう。手首より先の部分に大事なものがある。手首で切断された言葉ではなく、指先の動きで書かれた言葉が、紙を知っている。意味を知っている。
それは、紛れもない質感を通ってきた。
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